![]() ド田舎の爺さま、婆さまたちとピカピカのシティ熟女との連帯。古きよき村落共同体の滅びの宿命に対するこの命がけの抵抗に声援を送ろう。 管理された男性優位の社会で今を生きる女性、その自立を、 ミステリー系女流作家のうち 乃南アサは「しょせん抵抗しきれないが健気に」、 桐野夏生は「性行為と暴力では対等で破滅的に」、 篠田節子は「カリカリしながらもしたたかに」 と描き分けているように思える。 まもなく老後生活に入ろうとするサラリーマンベテランの立場からすると日本経済の再興のためには三番目の女性像を好ましく思えるのだがいかがであろうか。篠田節子『女たちのジハード』はその意味で拍手喝采に値する女の飛翔を書いた直木賞受賞作でした。本著もその延長にある。 東南アジアに位置し、群島からなる架空のテオバマル国。その国にあるバヤン島の高級リゾートゾーンに三人の日本人熟女がけたたましく到着する。金はありそうである。暇もありそうである。男がよだれをたらして寄ってきそうなナイスバディだ。しかもおつむのほうは空っぽのように見える。日本軍の占領下で虐待された過去をもつ現地民を前に、無神経な挑発的言動でふるまうこの三人に、実直な日本人青年ガイドはほとほと手を焼き、愛想をつかす。この三人トリオのブラックユーモア、ドタバタ観光騒動はいつまでも続かない。 テオバマル国にバヤン島独立の内乱が勃発し、高級リゾートホテルの観光客全員が虐殺されるのだ。命からがら逃げ出した三人が無人島でのロビンソンクルーソー体験を経て、ようやくたどり着いたのが山間部の寒村、古い因習にとらわれた閉鎖的部落のひとつである。宗教、習慣、生活の基礎がそれぞれ異なる複数の部族が共存しているバヤン島の現地民には「国家」などという概念は存在しない。よそものがわめきたてるバヤン独立の大義など文字通り他人事である。 著者は明らかに今ある国際紛争の根源的縮図をここで示している。だれが何のために起こしたかはわからないまま、内乱はこの貧しいが平和な共同体を血なまぐさい戦闘に巻き込んでいく。彼女たちにとっては異文化との接触であり、島民たちにとっては伝統文化と現代文明の対立の場である「コンタクト・ゾーン」と私は理解する。 著者の名作『弥勒』の再現である。呪術信仰が規律をたもつある意味で非効率な部族社会に対して、暴力的にでも合理主義の近代国家化を進めざるをえない国際化の激流は過酷であり、救いの見えない地獄図が展開される。資本主義と社会主義の対立が終焉した後、私たちが今経験している新たな対立の構図を寓話的に、今回は『弥勒』よりも具体的にわかりやすく描写しています。ただ、わかりやすいぶん、深みにはかけるのだが。 『弥勒』はまさに絶望の終章であったが、今回は知的で情熱家でスタミナのあるしぶとい女たちの部族民との交流、信頼関係の醸成、精神の成長と大活躍があり、またそれにもまして部族民の辛抱強さと長老たちの知恵がきらめき、黒澤明『七人の侍』のエンディングに通ずる百姓たちの祈りに似たラストによって、淡い光明が差し込む期待をいだかせてくれます。 『弥勒』発表後、先のアフガニスタン、今回のイラク戦争と現実世界の対立がこれほど身近な危機として、大規模に深刻化してくると、アメリカ流の正義を受け入れられない文化には救いがないとされますと読み手にとってもやりきれませんからね。 |
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2003/11/27宮部みゆき『誰か』期待を裏切られたこの凡作
宮部みゆきは多方面のジャンルで優れた作品がありますが私は現代の経済社会に直結した風俗をとらえ、社会との関わりの中で犯罪に巻き込まれていく一般庶民を丁寧に描く作品が彼女の真骨頂だと思います。 ...続きを見る |
日記風雑読書きなぐり@WebryBlog 2005/05/13 14:03 |
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