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help リーダーに追加 RSS 宗教には縁のない私のキリスト教に関するまじめな疑問その2 『小説 聖書 新約編』

<<   作成日時 : 2005/04/05 22:46   >>

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2002年12月5日
前に読んだアベカシスの 『クムラン』ではイエスですら磔刑の苦痛のなかで
「なぜ神は私を見捨てるのか」
と絶望することが記されていた。
これでは往生はできません。
この神の子にして救われなかったとするこの小説に虚構としての面白さを感じたのである。
しかし、どうやら虚構と断定するにはそう単純ではないようです。

ウォルター・ワンゲリン『小説聖書 新約編』への私の関心はまさにそこにあったのだが、驚いたことにここでもイエスは
「わが神よ、どうして私をみすてられたのですか」
と叫ぶのである。
聖書でもそうなっているなら、結局のところ神は不実なのではないかとの思いを改めてしたのですが、作者はこの絶叫の意味を解釈していない。私としては消化不良のままで読了したことになります。
よく「聖書は歴史上最高のミステリーだ」といわれますがこれだけでもその通りだと思われます。
磔刑に処せられる直前の拷問、刑場までの血みどろの歩み、イエスの受けた肉体的苦痛、これを嘲笑する大衆、晒し者とされる精神的虐待、全編を通しては難解な会話で構成されているだけに、この描写だけがひときわ生々しく、とても印象に残りました。
(2004年メルギブソン監督の映画「パッション」のこのシーンには圧倒されました)

不可解で悩み多きイエスに対してあのユダであるが、こちらのほうがはるかに判りやすくいきいきしていることに驚かされた。私はユダという人間は金のためにイエスを売った軽蔑すべき対象とばかり勝手に考えていたのであるが、そうではなかったことに気づかされました。

私流に解釈すれば過激民族主義者ユダは旧約の神の教えを信じきっていた男のようである。すなわちイエスこそはイスラエル民族の指導者であり、民族を弾圧するローマとそれにくみする堕落した聖職者たちと徹底抗戦し、終末戦争において完全勝利する役割をあたえられたメシアであると確信していた。その勝利の方法はあのモーゼがエジプトファラオに示した天変地異の壮大な奇跡でしかない。ナイルを血で染め、疫病をはやらせ、飢饉をもたらし、エジプト先鋭部隊を劫火で焼き尽くす。そして紅海を割り、自由の国家建設への大脱走。彼はいつイエスがこの奇跡を示すかと辛抱強く待った。しかし、肝心のイエスは動かない。そこで彼は考えた。イエスを窮地に追い込めば必ず奇跡を示してくれると。
どの時代でもいるんですねぇ。機は熟した、ここで起爆剤となれば世の中はついてくると軽挙妄動に走る過激派は。ところが彼が期待する奇跡はおこらず、イエスは死をむかえ、彼は挫折するわけです。この気持ちわからないではない。


こういうことを我が友にぶつけますとクリスチャンである彼は
「聖書を解釈する以前に神とのつきあいは信仰するところから始まるのだ」と言われた。
宗教、神を信じるということはそういうことなのかもしれないとたいへん重みのある言葉として受けとめている。

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コメント(1件)

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はじめまして、遅れ馳せながらコメントを
イエスは神だったと解釈すると、神は人間達を救うために犠牲が必要だった。罪の贖いに対しての犠牲です、これは旧約聖書を見てもらえるとよく分かると思います。
そしてどうしてイエスが救い主なのか、それは彼の死によって本来死ぬべきわたしたち人間が、彼の死による贖いの血によって救いに預かることが出来るようになったからだと思います。
イエスには律法でいうところの子羊としてささげられなくてはならない、それはあらかじめイエスも分かっていたことで、聖書の中にもそれに思い悩む記述が出てきます。
でもそこから、神は本当に人となって人の弱さを持ちつつこの世において人の為に自ら命をささげて行ったことが分かってきます
なぜイエスが死ななければならなかったのかは
旧約聖書のレビ記と新約聖書の福音書を同時に読んでいくといいと思います。
イエスは律法を全うしていることが分かります。
ですが人であったイエス、そこは人である弱さも持っていた、そしてその最後の言葉だったと思います。
b
2006/06/01 00:45

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