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help リーダーに追加 RSS ヴァン・ダイン 『僧正殺人事件』 本格探偵小説の古典をあじわう。その古臭さ

<<   作成日時 : 2006/01/13 00:24   >>

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ところで当たり前のことだが「古典だな」と古臭さを感じるところにも気づかされる。

犯人像とか動機とか小道具の扱いのことではない。文体が醸しだす小説表現の古めかしさがある。
「それはあまりにも異常で、邪悪で、普通の人間がもっている精神では、とうてい信じられないほどだった」
「この奇怪な事件にはなにかしら、より深いものが、なにかしら思いのほか陰惨で、戦慄すべきものが、潜んでいる」
「ヴァンスが、あの古い、耳なれた歌の文句をくりかえしたとき、まるでなにか目に見えない幽鬼がそばにいるかのように、私はぞっと寒気がした」
このように本格探偵小説では作者があるいはこの小説では私」がまるでキャッチコピーのように読者に説明するところが文中で何度も何度も繰り返される。主人公の探偵がいかに頭が切れるかを描写するのもいくつも感嘆詞つきの賛辞を重ねるのが普通である。
子供のころの紙芝居の語り口を思い出します。
江戸川乱歩の怪人二十面相もそうでした。横溝正史にもそんな雰囲気があったし、高木彬光の初期の神津恭介シリーズにもあった。
語り手の読者に対する過剰な介入。
それは懐かしい語り口なのだ。懐かしいのだが子供に噛んで含めるようなところで「余計な!」と気に入らない余韻がともなうのだ。
「社会派」に馴染んでミステリーに入ったものだから「本格派」も「その他派」も定義はあいまいのままにちょっと飛躍かもしれないがあえて言えば社会派と呼ばれた推理小説作家たちはこれはしなかった。事件がたとえ奇怪、異常、邪悪、陰惨、戦慄、酸鼻、であっても作者、あるいは語り手の「私」はそのままの言葉で説明はせずに読者を物語の中に臨場させる手法で情感においてストレスを実感させたものだ。当時はそんなことには気がつかなかったのだが、いまになってだから松本清張や水上勉は新鮮だったのだと思い当たる。

ヴァン・ダインは論理的な謎解き以外のたとえば恋愛的要素など総てを排除すべきとする極端な本格派だったのだそうだ。論理にこだわれば情感は語り手が説明することになったのだろう。

感服すれど感激せず。ここに本格探偵小説の真髄がある。これも又楽しからずや。

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ヴァン・ダイン 『僧正殺人事件』 本格探偵小説の古典的名作の味わい 古臭さのないところ
清張以降の「社会派」になじんだミステリーファンには私のように本格探偵小説にさほど魅力を感じない人たちがいるのではないかと思う。わたしはそれでもときおり新本格派として登場していたものを読むが、周囲にいるオジサン族に薦められる作品にはお目にかかることはなかった。人生の古ダヌキたちには情感を揺さぶられる小説が好きでも、純粋な論理的謎解きゲームに仕掛けられた騙される快感を良しとする洒落たてあいがいなかったこともあるのだが、新本格のたいがいの作品が重厚長大でスマートさに欠けるところが大きく、忙し... ...続きを見る
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2006/01/13 00:29

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