![]() 坂東眞砂子の作品を初めて読んだのは『狗神』だった。日本に古くから伝わる憑物伝承を正確に消化し現代の農村に甦らせたホラー小説の傑作だった。その後『死国』と『山妣』を読んでいる。『山妣』は直木賞を受賞した、大自然の凄愴の美と人間界の極彩色の地獄図を描いた記憶に残る作品だった。 その坂東真砂子についてちょっとだけセンセーショナルな見出しが目にとまった。 8月24日の読売新聞夕刊 私にはこじつけとしか思えないのだが、そうする理由が振るっている。 「獣の雌にとって『生』とは盛りがついた時にセックスして、子供を生むことではないか。その本質的な生を人間の都合で(つまり避妊手術で)奪い取っていいものだろうか」 「子猫が野良猫になると人間の生活環境を害する。(だから避妊手術をすることに)異を唱えるものではない」としながら 「(避妊手術を施すことと)生まれてすぐの子猫をころしても同じことだ。子種を殺すか、できた子をすぐ殺すかの差だ」 彼女の場合は親猫には愛着をもっているからその避妊よりも子殺しを選択するのだとおっしゃる。 きっと彼女は猫を崖から投げ落とす現場を近所のオバサンに目撃されたのだろう。そのオバサンは彼女をなじったに違いない。彼女自身も後ろめたい気持ちはどこかにあって、弁解をしたかったのがこのエッセイになったのだと思う。いかにも直木賞作家のインテリ風な居直りになってしまった感がする。 私も犬を飼っていて、雌だからよく早めに避妊手術をさせなさいとアドバイスをうける。私もせっかく生を受けた生き物がはなからセックスができないように手をくわえるのは好ましくないのでそんなことをするつもりがないことは坂東眞砂子と同じだからそこまでは理解できるがそのあとの飛躍はヒステリーの人格でしかできませんね。 読売の見出しが目に入った瞬間は実は坂東眞砂子が猫を殺しながら、サディスティックな快感を味わっているお話かと思った。それならなんと哲学的なことよと感心したかもしれないがこれはかなり低レベルですね。 なぜそんなことを思ったかと言うと芥川賞を受賞した中村文則の『土の中の子供』の印象的なシーンが浮かんだからだ。この主人公は小動物を高いところから落とす。そして落とされたものが死の直前に感じるであろう恐怖感を共有する暗い嗜好がある。それは加虐の喜びに見えて被虐の喜びでもある。芥川賞作家らしい難しい論理なのだが。 共通している小動物の生と死について坂東眞砂子の実体験の感性よりもこの主人公の抽象的感性のほうがなにかを訴えようとする力は強い。 ![]() |
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