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zoom RSS 鳥羽亮 『絆 山田浅右衛門 斬日譚』  慈愛の人・浅右衛門の内心を探る。

<<   作成日時 : 2007/12/01 17:09   >>

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山田浅右衛門といえば「首斬り浅右衛門」として、死罪人の斬首役であるとの知識しかなかったが、本職が徳川家御佩刀御試御用役だったとはこの作品ではじめて知ったことだ。
実は先日読んだ、山本兼一『いっしん虎徹』で刀剣の斬れ味を鑑定する「試刀」という職業(一太刀で何体の死体を斬ることができるかを基準にして利鈍を試す)があることに驚いたばかりで、おっつけ読んだ山田浅右衛門の家業がこれであったかと偶然の出会いに思わず膝を打った。
罪人を斬首するためにふるう剣、山田流試刀術………。その奥義は、密かに懺悔を聞き、安息の境地へと導く慈愛。代々、山田浅右衛門を名乗る者のみが受け継ぐ秘剣であった。
科人の哀切極まりない懺悔があぶり出す人間の価値、人生の意味。珠玉の連作短編集

7代目山田浅右衛門吉利、安政の大獄で頼三樹三郎、吉田松陰の処刑にあたった実在の人物である。この作品は7つの短編集で、安政という乱世を背景にしたそれぞれの罪人の過去が語られる。死罪人の生を絶ち人生の最後に接する首斬り人の誠とは。彼らにはこの世に対する怨念、未練、後悔、憤怒、悲哀などさまざまな断ち切れぬ思いがある。その迷いを一刀両断し、西方浄土へ導いてやることにある。吉利の生き方はこの清冽な精神が一貫している。
首を斬る一瞬に罪人の迷いを断ち切る。あぁこれなら間違いなく往生したに違いない、と読む人に余韻を残す哀切のラストがある。そして振り返って、先行き自分が死を目前にした時、いったいなにを思うことになるのだろうとしばしボーッとする。そんな読後感があった。

しかし、待てよとどこか小骨が喉をちょっと傷つけたような、全部が全部きれいごとではないぞと気にかかるところがある。なるほど吉利は罪人に対しては徳を積んだ高僧のような存在だが、では吉利自身が死に臨んだときなにを思い浮かべるのだろう。おのれの生き方に悔いるもののない往生ができるのだろうかとの疑念である。それはどうやらへそまがりの私だけが思いあたることではないのかもしれない。表面の美談とは裏腹に、なにかやりきれない痛みを吉利の心中がかかえていることを著者は巧妙に隠しつつしかし行間に滲ませている。

浅右衛門家の本業は「試刀」であるがそれは斬首されたあとの死体を据え物斬りにして刀剣の切れ味を鑑定するものだ。稽古ともなればまさになますのように死体を切り刻む。そして鑑定料は莫大な収入をもたらす。もう一つの副業があって、具体的にここで触れることを控えたいが、人の倫にあるいはそむくようなビジネスであり、本業よりも高い収入であったと述べられている。
7つの物語の中で私が強く惹かれたのは「絆」と「病魔」であった。「絆」は長男の吉豊が斬首人としての初体験の場で恐怖と罪悪感から一太刀で首を断つことがでず無惨な処刑現場となってしまうシーンがある。「病魔」は次男の在吉がその副業を「武士らしからぬ所業」となじり父親を忌避するシーンである。いずれの物語もこの迷える息子たちはやがて父親の生きかたに敬服しきれいに終わるのであるが。

慈愛の人・吉利。だが息子たちのうぶな感情こそ人間らしいのであって、この息子たちを前にした吉利は非情の人、極端には人でなしとも言える人格を一方で持っているのではなかろうか。いやそうではなくこの息子たちこそ吉利自身の本質なのだろう。吉利は斬首の際に涅槃経の四句偈を唱える。極楽浄土へ送るために罪人の迷いを切るためである。それだけではない。自分自身の罪障消滅を念じつつ太刀を振り下ろしているのではなかろうか。

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