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zoom RSS 上野、谷中、根岸の文化史跡めぐり その一

<<   作成日時 : 2007/12/29 20:37   >>

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上野は中学生の頃からなじみの場所だけれど、こうして史跡をたどると随分と見所のある地区なんだといろいろな発見がありました。
寛永寺境内とは谷中まで含む広大なものだったんですね。上野戦争でほとんどが焼失したんですから、ひどく残念に思います。
ちょうど銀杏が鮮やかな黄色に染まり、秋深し上野の森でした。

2007/12/02

                       西郷さんの銅像

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これは上野のシンボル。
明治31年の除幕式に参列した西郷夫人が像を見た瞬間に「アラヨウ!宿ンしはこげなお人じゃなかったこてエー」と腰を抜かしたそうだ。高村光雲が肖像画や関係者の意見などを参考にした作品なのだが、西郷隆盛の写真は一枚もないらしい。キヨソネの肖像画はよく知られるがこれも本人を写生したのではないと言われる。
西郷は明治10年、西南戦争で自刃した。新政府に戦いを挑んだ賊軍の大将だったわけだが明治22年には正三位を追贈され、除幕式には時の総理大臣・山県有朋をはじめ勝海舟、大山巌、東郷元帥等そうそうたるメンバー800名が参加して盛大に行われた。国を挙げての除幕式だった。

日本には古来中央政権に立ち向かって非業の死を遂げたヒーローを神に祀り上げ、祟りを封じ込める習俗がある。菅原道真、平将門がよく知られる。あるいは源義経のように死ななかったことにして、実はジンギスカンになったと風説を広める鎮魂もあった。

西郷さんはあの時死んでいなかった、ハワイに落ちのびてその孫が相撲取りの武蔵丸………そんなジョークをだれかが言っていた記憶がある。

この銅像、筒袖に兵児帯、犬を連れているのがいい。これが軍服、佩刀、乗馬姿であったら、おそらく、上野のシンボルとしてたくさんの人から親しまれることはなかったでしょう。

                       彰義隊の墓

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徳川慶喜の側近であった小川興郷らは慶応四年(1868)、大政奉還して上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同士を募った。徳川政権を支持する藩士、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦5月15日新政府軍は半日で彰義隊を壊滅させた。生き残った小川らは明治7年にようやく新政府の許可を得て激戦地であり、遺体の火葬場となった当地に戦士の墓を建立した。(ガイドより)

大きな墓石のほうに山岡鉄舟筆になる「戦士之墓」とある。政府をはばかって「彰義隊」の文字はないが、地中に隠され後に掘り出された手前の小さな墓石には、はっきりと「彰義隊」の文字が刻まれている。

大村益二郎指揮の東征軍は、薩摩軍が広小路路口から、長州軍が谷中本郷台方面から上野を総攻撃した。午後には新政府軍のアームストロング砲が山内に打ち込まれ、午後二時には黒門が突破され、戦況は決定的なものとなって戦いは半日で終わった。
官軍は彰義隊に対しては厳罰でのぞみ、死体の後片付けさえも許さなかったという。

この戦火で寛永寺の根本中堂をはじめとする主要な堂宇は焼失した。

                      天海僧正毛髪塔

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108歳と長寿だった天海僧正という人物は俗界で派手に動き回ったエネルギッシュな坊さんのようだ。
江戸初期の天台宗の高僧。詮号は慈眼大師。
1571年(元亀2)延暦寺が織田信長の焼打ちにあうと,山門の衆徒をひきつれ,甲斐の武田信玄のもとに身を寄せた。
77年(天正5)には奥州会津の蘆名(あしな)氏のもとに移り,90年豊臣秀吉の小田原の陣に赴き,秀吉に従った。
この年常陸不動院を復興,99年(慶長4)武蔵国仙波喜多院(川越)に入り,ついで下野の宗光寺に入った。
天海の高名をきいた徳川家康は,1608年駿府に招請する。12年家康の指示により,仙波喜多院(川越)を修造して関東天台宗の総本山とし,東叡山と号した。
14年豊臣秀頼が東山方広寺に大仏を再建し,巨鐘を鋳造すると,家康方の黒幕としていわゆる鐘銘事件にかかわり,大坂の陣の戦乱をひらくきっかけをつくった。

ここまでも凄い活躍だがこのあと秀忠、家光に仕え政治向きのことにいろいろ登場する。
元和2年(1616)家康が没すると、その神格化にあたり権現号の勅許を計り、合わせて日光廟の基本的構想を立て、その造営を指導した。その後も、秀忠、家光の帰依を受け、江戸城鎮護のため上野忍岡に寺院を建立することを進言。寛永2年(1625)この東叡山寛永寺が創建された。

寛永20年(1643)108才で他界。遺命により日光山に葬り、この地(旧本覚院跡)に供養塔が建てられた。毛髪を納めた塔も建てられて以来、毛髪塔と呼ばれるようになった。

坊主の供養塔に「毛髪」とは不思議である。

細長い石碑には「慈眼大師」の文字が見える。

                       清水観音堂

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寛永寺の堂宇の中でもっとも古く、寛永8年(1631)、創建。天海大僧正は寛永2年(1625)に平安京と比叡山の関係に倣って「東叡山寛永寺」を開山した。
比叡山が京都御所の鬼門を守護、王城の鎮護を担うと伝えられるのに倣い、江戸城の鬼門の守りも意味している。清水観音堂は京都の清水寺を模して舞台作りとなっている。不忍池が琵琶湖であり、弁天堂は竹生島。
堂内には「彰義隊の絵馬」が奉納されていて黒門からなだれ込む官軍、清水堂破風に砲弾が当たる瞬間が描かれている。政治向きの絵がはばかられた手法をとり、明智光秀が織田信長を攻めた本能寺の変を題材に見立ててあるのが面白い。

                     観音堂裏手「秋色桜」

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いまは枯れ枝としか見えないが数ある上野公園の桜の中で命名されている数少ない櫻木。

秋色桜(しゅうしきざくら)

井戸ばたの
桜あぶなし
酒の酔


元禄、日本橋菓子屋の娘お秋が花見客でにぎわう井戸端の様子を詠んだ。桜の枝に結ばれたこの句は輪王寺宮に賞せられ一躍江戸中の大評判となった。宝井其角の門下生だったお秋は当時13歳と言われている。
俳号を菊后亭秋色、以来この桜は「秋色桜」と呼ばれる。



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清水観音堂@上野
小さいながらも、京都の清水寺と同様に“舞台”があり、その傾き加減もよく似ています。建物の脇から“本堂”と“舞台”に入るようなつくりもそっくりで面白いです。今年はここで初詣となりました。おみくじは「吉」でした。 ...続きを見る
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