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東照宮といわれると「日光」しか思い浮かばないのだが、実は徳川家康をまつる神社として御三家をはじめ、親藩、幕臣により全国各地に勧請されていることがわかった。 1616年(元和2)家康が駿府で没すると,遺言に基づきいったん駿河久能山に葬り,翌年下野日光山に遷葬,朝廷から東照大権現の神号が授けられた。これが日光東照宮。 久能山東照社にあっては17年12月社殿を造替,幕府は神領3000石を寄進している。 家康死去の年に外孫松平忠明が大坂天満の川崎に,外様大名有馬豊氏が筑後善導寺に,東照社をまつった。 また秀忠は18年江戸城紅葉山に東照社を勧請した。 藤堂高虎は府内士庶参詣の便に上野忍ヶ岡に小祠を建て勧請したが、寛永寺創建にともない幕府は27年(寛永4)これを造替する。これが上野東照宮である。 また御三家では,尾張の徳川義直が19年名古屋城三の丸に,紀伊の徳川頼宣が21年和歌浦雑賀山(さいかやま)に,水戸の徳川頼房も同年水戸霊松山(常磐山)に東照社を創建した。その後も全国各地にも創建されている。 この上野の東照宮、いやぁ思いがけないみつけものがたくさんありました。 本殿への参道 東照宮へ向かう参道の両側には燈籠が立ち並ぶ。 ここ上野東照宮に伝えられるところでは、危篤の家康から末永く鎮魂できる場所を造って奉ってほしいとの遺言をうけたのは駿河城に見舞いに赴いた、藤堂高虎、天海大僧正だといわれている。そこで高虎は府内士庶参詣の便にと寛永四年(1617年)屋敷領地であった上野忍ヶ岡に小祠を建て勧請したのがそもそもの始まり。 その後三代将軍家光がこの寺院に満足出来ず慶安四年、寛永寺創建にともない現在の社殿(金色殿)を造形し以後江戸の象徴とした。 東照宮社殿正面 写真手前の建物が唐門 奥に幣拝殿、本殿が見える。 祭神は徳川家康、吉宗、慶喜。 慶喜が祭神として祀られている背景など類推する楽しさ。 東照宮唐門 左甚五郎作水呑み龍 これが国宝の唐門。 正しくは旧国宝、現在は重要文化財。 左右に左甚五郎作、昇り龍・降り龍の彫刻。 左甚五郎の伝説あるいは講談ネタは数知れないがここの水呑み龍伝説もまた面白い。 三代将軍家光が上野寛永寺の鐘楼建立にあたり四隅の柱に甚五郎をはじめ木彫の名人4人を選んでそれぞれ1匹ずつの龍を彫らせた。ところが甚五郎の彫った龍だけがなぜか夜な夜な柱から抜け出して不忍池に水を飲みに降りるようになり大騒動となる。そこで甚五郎が「かわいそうだが足止めをする」と言って金づちで龍の頭へくさびを打ち込むと、その夜から龍は水を飲みに降りなくなったという話。 ただし、ここにある鐘楼と鐘は残っているが、くだんの彫刻はない。 そこで東照宮ではこれが甚五郎作の水呑み龍だと伝えている。 旧国宝・透塀と御三家寄贈の銅燈籠 旧国宝・透塀 明治40年旧国宝指定。総金箔の門であったが、修復が財政上できないまま下地漆塗り。かつては上下にすべて極彩色の彫刻があったが、戦後進駐軍の土産に持ち去られ現在は約250枚程となった。そうした面影はここからはよくわからなかった。 銅燈籠 東照宮社殿唐門前と参道に、五十基ほどの銅燈籠が並んでいる。あまりたくさんあるのでびっくりした。 これらの銅燈籠は、諸国大名が競って東照大権現霊前に奉納したもので、竿の部分には、寄進した大名の姓名と官職・奉納年が刻字されている。家康の威光は驚くべきものがあった。 慶安4年4月17日東照宮社殿落慶の日の奉献数が最も多い。 著名な大名名が多く、歴史を身近に感じられる。 東照宮 おやっ!こんなところに「新門辰五郎」 新門辰五郎と刻字のある水呑み台があった。 町火消、鳶職、香具師、侠客、として講談ではなじみの男伊達である。徳川慶喜とは昵懇だったようだ。慶喜が京都へ上洛すると子分を率いて二条城の警備をしている。娘の芳は慶喜の妾となった。慶喜が大坂から江戸へ逃れ、上野寛永寺に謹慎した際には寺の警護、上野戦争での伽藍の防火、慶喜が水戸(茨城県)、静岡と移り謹慎するとそれぞれ警護を務めている。 彰義隊の後始末にも精力的だったようだ。上野とは切っても切れない縁がある男だ。 「新門」の姓も輪王寺新門を警護した事に由来する。 東照宮 大石鳥居 老中、大老を務めた酒井忠世が奉納した。 寛永10年4月17日 酒井雅楽頭の刻字が見える。「下馬将軍」といわれた忠清はこの孫にあたる人。 旧国宝指定。関東大震災の析にも微動だにしなかったほど強固なつくりの鳥居。 東照宮 お化け燈籠 高さが6メートルを超す巨大なところから「お化け燈籠」と呼ばれている。これが正式名称になっているところが実に妙である。 陽光をあびて紅、黄、緑が映え、絵のなるワンショットを狙うカメラマンたちが囲んでいた。 ぽつんとひとつだけこの場所にあるのだが、ここの東照宮が創建されてまだ大鳥居や燈籠の寄進がすすまない当時に先駆けて佐久間大膳亮勝之が寄進した石造の燈籠である。寛永八年と刻字されている。 勝之は信濃国川中島のほか一万石を領した。 大きな地図で見る |
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