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zoom RSS 上野・谷中・根岸 文化史跡めぐり その五 霊廟、藤堂高虎墓所・寛永寺根本中堂

<<   作成日時 : 2008/01/06 00:23   >>

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               厳有院(4代将軍家綱の法名)霊廟勅額門

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4代将軍家綱は、慶安4年(1651)4月に父・家光の死に伴って、わずか10才で将軍の座につき、延宝8年(1680)5月8日に39才で没した。
法名を厳有院(げんゆういん)という。
病気がちであった家綱時代の政務は、主として重臣の手に任されていたが、とくに後半の政治を担当した大老・酒井忠清が有名である。
時代は家綱の襲職直後に起こった由比正雪(ゆいしょうせつ)の乱の解決を機に、ようやく安定期に入った。
家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎(すいばんしゃ)(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災いを免れた貴重な遺構である。
勅額門の形式は、四脚門(しきゃくもん)、切妻造(きりづまづくり)、前後軒唐破風付(ぜんごのきからはふつき)、銅瓦葺(どうかわらぶき)。
なお、このうち水盤舎は延宝8年に家綱のために造立されたものであるが、この勅額門は昭和32年の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。

平成6年3月
台東区教育委員会

補注
家綱の治世は家光を継承し、文治政治を展開する。内容的には二期に分けられる。前期は後見・保科正之を中心に松平信綱、阿部忠秋など、「寛永の遺老」の補佐による運営で前代の継承ともいえる政治。後期は大老・酒井忠清により主導の政治で幕府官僚制の基礎が築かれた。家綱は政治に関心がうすく、すべて忠清にまかせきりで「下馬将軍」と言われるほど、忠清は権勢をほしいままにしたと伝えられる。

                  藤堂高虎の墓所 寒松院

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藤堂高虎と上野
上野山は、戦国時代には忍岡(しのぶのおか)と呼ばれており、元々江戸においては人口の少ない地域であった。
1603年に江戸幕府が開かれた頃、忍岡には、伊賀国上野を本拠地とする外様大名・藤堂高虎の屋敷が置かれた。
高虎は家康がなくなったあと、寛永3年(1626年)この江戸屋敷の敷地内に家康を追悼しお堂を建てたのが上野東照宮の起源と言われ、この地形が高虎の伊賀の領土上野と同じ丘陵となっていたことから、上野の地名をうつしたと言われている。
ただしこの俗説は虚説らしいのだが「伊賀の忍び」と「忍岡(しのぶのおか)」「不忍池」の語呂といい、たいへんにロマンがかきたてられる説である。

            常憲院(5代将軍綱吉の法名)霊廟勅額門

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元禄11年9月この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。この造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀伊国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。またそれに伴って先聖殿(現湯島聖堂)が上野から湯島に移されている。
綱吉の霊廟は宝永6年の11月に竣功したがそれは歴代将軍の霊廟を通じてみても、もっとも整ったものの一つであった。ただ、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界戦争で焼失した。この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)はその廟所とともにこれらの災難を免れた貴重な遺構である。
台東区教育委員会


                   寛永寺 根本中堂

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大慈院。もと寛永寺の子寺。
旧寛永寺の根本中堂等が彰義隊討伐の兵火に焼けて、寺は現在地に移り、明治一二年(1879)埼玉県川越市の喜多院の本地堂を移したのがこの本堂で、寛永15年(1638)の建造という。
本尊の薬師如来三尊立像は、国重要文化財の指定を受けている秘仏である。

大政奉還した徳川慶喜が水戸に移るまで2ヶ月間謹慎をしていた。

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