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zoom RSS 江戸歴史ウォッチング 水天宮から元吉原界隈

<<   作成日時 : 2008/01/20 23:49   >>

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八丁堀から新大橋通りを北東へ。茅場町は「日本橋」茅場町なんですね。日本橋というとあの橋の付近ばかりを指す地名とばかり思っていました。小網町町、蛎殻町を抜けると水天宮前交差点。この交差点に安産祈願で有名な水天宮はある。神社仏閣は緑の中で自然と一体になって厳粛さを感じるんですが、こんなに交通量の激しい場所にあると参拝もせわしないのではあるまいか。

                        水天宮
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水天宮ってなぁに?とガイドボードを見る
御祭神 
天御中主大神8あめのみなかぬしのかみ) 安徳天皇、建礼門院、二位ノ尼(清盛の妻 時子、安徳天皇の祖母 建礼門院の母
(安徳天皇が御祭神になっているなんてまったく知りませんでした。建礼門院は確か壇ノ浦では生き残ったはずだが、まあそんなことどうでもいいでしょう)
当社は文政元年(1818)港区赤羽にあった有馬藩邸に当時の藩主有馬頼徳公が領地(福岡県久留米市)の水天宮の御分霊を神主に命じて藩邸内に御分社を祀らせたのが創めです。久留米の水天宮はいまからおよそ700年ほど前に創建されたと伝えられております・かの壇ノ浦の戦いで敗れた平家の女官の一人が源氏の目を逃れて久留米付近にに落ち延び、一門とともに入水された安徳天皇、建礼門院、二位の尼の御霊をささやかな祠をたてておまつりしたのが創めです。
(水天宮はその総本山がいまでも久留米市にあり、航海の安全をつかさどる水神として信仰されており、安産信仰はこの日本橋水天宮に特有なご利益のようだ。水神であるから水商売の神様でもあります)
江戸時代の水天宮は藩邸内にあったため庶民は普段参拝ができず門外より賽銭を投げ参拝したといいます。ただし毎月5日の縁日に限り殿様の特別の計らいにより藩邸が開放され参拝を許されました。その当時ご参拝の妊婦の方が鈴乃緒のお下がりをいただいて腹帯として安産を祈願したところ非情に安産だったことから人づてにこのご利益が広まりました。その当時の水天宮の賑わいを表す流行言葉に「なさけありまの水天宮」という洒落言葉があったそうです。
明治維新により藩邸が接収され、有馬鄭が青山に移るとともに青山へ、さらに明治5年現在の蛎殻町に御鎮座いたしました。
関東大震災で神社は被災しましたが御神体は隅田川に架かる新大橋に非難し難を免れました。その後御復興も相成り昭和5年流れ造りの社殿が完成、時移り昭和42年現在の権現造りの社殿となりました。

                      軍鶏鍋の「玉ひで」
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「創業宝暦十年(1760年)御鷹匠仕事」とある。軍鶏鍋料理で有名な店だ。コース5000円。池波正太郎の「鬼平犯科帳」にはよく軍鶏鍋が登場して大衆料理かと思っていましたが、料金は庶民的とはいいかねる。たかが鶏肉ではないかと思うのは間違い。本物の軍鶏はなかなか手に入らぬものなのだそうだ。
昼は親子丼が人気。「11:30から13:00までに並んだ方」に800円。これを食べるつもりだったが、間に合いませんでした。

                     遊郭吉原発祥の地
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吉原といえば浅草山谷の吉原を思い浮かべますが、もともとはこのあたりに作られたものなのですね。江戸時代の初めに葦の繁茂する湿地帯を埋め立てして造成されたのがこのあたりです。
吉原は元和三年(1617)江戸市内各地に散在していた遊女屋を現在の日本橋人形町、日本橋富沢町付近に集めたのが始めである。1400余坪を堀で囲んだ遊郭吉原で江戸一番の歓楽の地となった。39年この地で栄えた吉原遊郭は明暦の大火(1657)で焼失し、浅草山谷へ移された。あと地は新和泉、住吉、高砂、浪花の4箇所の商業地となり、周辺の商業地とともに大いに繁盛した。
大門のある通りは仲之町と呼ばれ、現在ではこの通りを「大門通り」と呼んでいる。人形町形町2丁目の末廣神社は、吉原があった当時から元吉原の産土神(うぶすながみ)として、明暦の大火で移転後は難波町、高砂町、住吉町、新和泉町の産土神として信仰されており吉原以来の歴史を持っている。

              「与話情浮名横櫛・源氏店」は玄冶店
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粋な黒塀 見越しの松に
あだな姿の洗い髪 死んだはずだよお富さん
生きていたとはお釈迦様でも知らぬ仏のお富さん
エエサホー 源氏店(げんやだな)
ここがその源氏店の跡地であります。
江戸時代の初期、新和泉町のこのあたりは、幕府の医師で岡本玄冶の拝領屋敷があったことから「玄冶店」とよばれていた。
この名前は歌舞伎「与話情浮名横櫛」の「源氏店の場」の一幕でお富と切られ与三郎の情話の舞台となりその名が広く世に知れれるようになった。
土地の親分・赤間の妾・お富を見染め密会する与三郎だが、見つかってなぶり殺し、お富も海に身を投げる。奇しくも助かった二人が再開する名シーンが玄冶店(源氏店)。「しがねぇ恋の情が仇……」ではじまる名長台詞が有名。

              懐かしい「濱田家」はこんなところにあった。
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元吉原の通りを歩いてたら随分昔にお邪魔したことのあるこの店があった。
料亭「玄冶店 濱田屋」
夜に車できていたのでこんな場所だったかとまるで初めて見るような錯覚。料亭を昼見ると味気ないものだ。

この辺りには昔からのうまいもの屋がある。
中でも鯛焼きの柳屋、豆腐料理の双葉は人気の店だ。

詳細はアルバム「八丁堀から日本橋へ

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