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「江戸っ子は水道水で産湯を使い」とそれが江戸っ子の自慢だったそうだ。映画でみる庶民の長屋風景には井戸端が出てくるが、あれが掘り井戸ではなく水道の出口に当たる井戸だと知ったのは最近のことだ。 江戸の町に住む人たちの飲料水は水道により運ばれていたのだ。。 その水道の一つに神田上水があるのだが、そのルートは? 飯田橋駅から外堀通りの大歩道橋の下・首都高真下、北から外堀に流れ込む流れが見える。橋下に交番があったのでおまわりさんにあの流れはなんと言う川かと聞くと「神田川」だと言う。私は江戸川ではないですかと間抜けたことを言った。てっきり外堀だと思っていたところはそれも神田川であることは確認した。 水道橋の名前の由来、この外堀・神田川の上を懸樋を通して神田上水の水を市中に流していた、を思い出した。 そして椿山荘の高台下芭蕉庵から歩き始めた。 ![]() 安藤広重 名所江戸百景 「せき口上水端はせを庵椿やま」( 関口上水端芭蕉庵椿山) 1590年に江戸に入府した徳川家康は、海辺で井戸によって真水を満足に得ることができない江戸の飲料水を確保するために平川を改修し、井の頭池と善福寺池、妙正寺池を水源とする神田上水を整備した。関口はこの絵の左方、下流に水を貯める洗堰(あらいぜき)があって名づけられた。ここで堰止めされた水は目白台と小日向台の中腹を伝い、小石川水戸屋敷通過して水道橋で神田川に架かった懸樋を通り江戸城内や神田、日本橋の町屋へと流れ水道水として使われた。洗堰を越えた余水は神田川になって隅田川へと注ぐ。 延宝5年から8年(1677〜1680)に伊賀上野の藤堂家が上水の堰堤改修工事に当たった際、同郷の松尾芭蕉が旧家の縁でこの工事に従事し、このあたりに住んでいた。芭蕉の50回忌 に弟子たちがこの芭蕉庵を建てている。 なおこのあたりは椿の木が多く、近くの武家屋敷は椿山荘と呼ばれた。 ![]() 安藤広重 名所江戸百景 「昌平橋 聖堂 神田川」 神田上水の余水は当初、関口の洗堰から昔からあった平川へ落とされ、小石川台地の南麓を経て隅田川へ注いでいた。この川は洪水の危険があったことから本郷台地に続く神田山を掘削して掘割を作り平川の水を小石川から浅草の南で隅田川に流れるように仕向けた。これが神田川である。 目白下大洗堰 神田川の開削は徳川家康の命を受けた大久保藤五郎忠行が,家康の関東入国に先立ち開いたとも,内田六次郎が慶長ころに開いたとも伝えられている。 神田上水・神田川散策マップ 大きな地図で見る |
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