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文学史上に燦然と輝く傑作であると折り紙づきながら、まことに難解であるとの定評から手を出しかねる小説はいくつもあるが、探偵小説、推理小説の分野ならば、ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』などはその代表格といえよう。実際のところ同じエーコの『フーコーの振り子』には手を焼いた。「百科事典引用大小説」などと言われている。そのままでは読者が理解できないから、いたるところに長い注釈が付いていて、その注解を読んでいると肝心の本筋がわからなくなってしまう類の作品なのかと思っていたが、そうではなかった。ちんぷんかんぷんの概念が生のまま登場するものだから、「百科事典を傍らにおいてそれを首っ引きにしないと理解できない」という、とてつもない労力を伴う作品であることがわかった。 『薔薇の名前』も『フーコーの振り子』同様、キリスト教にかかわるいわば神学ミステリーである。神学ミステリーと言っても、よくある生半可にキリスト教の教義を引用した安手のミステリーとは格が違う………と思われる。キリスト教教義に無学な私としては「思われる」としかいいようがないのだ。さらに国民生活にキリスト教信仰が深くかかわっているわけではない日本人としては実感する手ごたえがまるでないテーマであるから、読みこなすのは並大抵ではない。 まぁ、難解なものに取り組むのもまた読書の楽しみの一つであると、消化不良で癪に障ることになるのを覚悟で読み始めたものだが、『フーコーの振り子』に比べれば導入部ですぐに連続殺人事件のストーリーの展開が見えた分、とっかかりやすかった。重層的に構築された重厚なテーマ群からなる作品ではあるが、そのなかで少なくとも連続殺人の謎解きについては、ショーン・コネリー主演の映画を観ていたために、つまり犯人はだれかを知っていたので、理解の補足があったことになる。 フランチェスコ会修道士・パスカヴィルのウィリアム(映画ではショーンコネリー演ずる)が若いベネディクト会見習修道士・メルクのアドソを従えて訪れたベネディクト会修道僧院で奇怪な事件に巻き込まれる。物語は今、年老いて死の淵にあるアドソが若き日を回顧する手記の形態をとる。 時は中世、場所は北イタリアの山中。見上げれば断崖絶壁に、まるで村人を睥睨するかのようにそそり立つ異形の建造物、城郭を思わせる堅固な僧院。迷宮に蓄蔵された聖なる財宝。キリスト教社会を破滅させるという秘密を持つ門外不出の禁書の群。密室、抜け穴、迷路、隠し扉、隠し部屋、暗号。僧院長、厨房係、文書館長などそこで生活している人たち聖職者の不気味な様相、何人かはその容貌自体が怪異であり、得体の知れない狂気に取り付かれている。悪魔の降臨か?最後の審判の日が近いのか?ヨハネ黙示録の予言どおりにおこる連続殺人。修道僧たちにはびこる背徳のセックス行為。宗教裁判。異端審問、拷問。事件の解明をウィリアムに依頼した僧院長・フォッサノーバのアッポーネが出入りを厳禁した唯一の場所が文書庫であった。 見よ!この豪華絢爛たる大道具、小道具を。このミステリー用の仕掛けの豊富さは驚異的である。しかも怪奇と幻想に満ちたて、すなわちこれは正統のゴシックロマンに他ならない。そして、超自然な怪奇現象がラストには合理的に解明される、本格派の推理小説である。 『薔薇の名前』という作品、あまりにも有名なため、私は何十年も前に著されたものと誤解していたが、1980年に発表され、1990年に邦訳された比較的新しい作品だった。非現実的舞台でおどろおどろしく事件を取り扱う探偵小説が流行った時代があってそれが昭和30年代に社会派や本格推理小説に取って代わられ、平成になってまた復活したようだが、謎解きを主眼にした「驚天動地のトリック」が売り物である。ただし、ウンベルト・エーコはこのはやりすたりとは一線を画している。 『薔薇の名前』全編からこの殺人事件に着目し、適当につまみ食いしてミステリーとして楽しむことは勿論できる。ただそれならばショーン・コネリーの映画のほうが濃厚な怪奇・グロテスクのムードを堪能できよう。この作品では事件そのものからはぞっとするような生理的恐怖を感じることはないし、真犯人探しのどんでん返しの妙もなければ、あっと驚く新機軸のトリックがあるわけではない。ただ古今東西の探偵小説の要素をたくみに取り込んで精巧な工芸品的探偵小説を作り上げた、その職人技に感心する。そして精緻な工芸品は懐の深い人物ならではの遊び心から生み出されたものだと気づかされる。どこかで読んだことのあるようなシーンだなと感じさせるところがあちこちにあってそれが楽しみの一つになっている。生真面目さを装いながらむしろパロディ化した集積を堂々と開陳するという諧謔の精神が一貫しているようだ。 私の経験から言えることだが、作品を読む前にできれば映画を観ておくことをお勧めしたい。すんなりとこの作品に入ることができる。全体の圧倒的質量に比較すればこの犯人探しのミステリー部分は添え物に過ぎないから、犯人があらかじめわかっていても差し障りはない。たとえば『カラマーゾフの兄弟』について父親殺しの犯人を知っていたところで作品の価値を味わうのにはなんら影響しないようなものだ。 じっくりと咀嚼し濃厚にして芳醇な味わいを楽しむべきは映画には現れていないところ、なにが犯人をそうさせたかにあって、事件の背景を濃密に多重層で語るところで、この作品は光彩を放っている。 神学、哲学、社会学、経済学、歴史学、論理学、記号学、心理学。なにせ博覧強記、「碩学エーコが仕掛けた知のたくらみ」である。全体質量をとらえるとなると、厄介なことにはまさに「百科引用大小説」であって、事実いくつかの項目は百科事典のお世話になった。およその見当が付くものもあれば、そこまでの詳細は私の所持するそれには記述されていない項目も多い。もともと作中作の構造にあるこの作品、虚実混沌がミソである。だからどんな百科事典にもない項目、つまりはエーコのエスプリが創造したまことしやかな史実・事件・通説・概念などが混じっているにちがいない。そしてよくわからないなぁと最後にたどりつく。 だいたいが薔薇の名前とはなんだ?と、訳者・河島英昭の「解説」に触れてはあるのだが、そこを読んでもさっぱりである。判然としないのが人間社会だとこんな捻った形で実感させるのがこの作品の核心部分なのかもしれない。 山登りをして頂上の見晴らしがよければそれはそれに越したことがないが、せっかく苦労しても雨だ霧だ、まるで展望がきかない時が多いものだ。それでも難度が高ければ達成感で自己満足する。それでいいんじゃないかと。 |
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おまとめブログサーチ 2008/05/29 14:59 |
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