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help リーダーに追加 RSS ウンベルト・エーコ 『薔薇の名前 下』 複雑に仕掛けられた複数のテーマを整理すると

<<   作成日時 : 2008/06/08 14:46   >>

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この小説にはややこしい迷路が登場するが小説の構造自体が迷路になっているのだ。いくつかの重要なテーマがあってそれがいくつもの断片になってバラバラと構成されている。わかりやすく時系列で述べられているのは連続殺人事件だけなのだ。せっかく読んだのだからもう少し理解してみたくなったので再読した。ついでに気になるテーマごとに再整理してみた。

猟奇的連続殺人事件は一度棚上げして、まずもともとフランチェスコ会修道士・パスカヴィルのウィリアムがなんのためにこのベネディクト修道僧院を訪ねたのか?そうはいってもこれが一筋縄ではいかない。雑駁なところで我流にこじつければ、目下進行中であるチベットと中国の紛争のような複雑に絡み合った国際政治問題なのだ。そしてこの和解工作に日本の福田首相が一肌脱いでチョモランマのどこかにダライ・ラマと胡錦濤から全権をゆだねられた大物代表団を招聘し、古代文明発祥以来の幾重にももつれた問題を一挙に解決しようとするぐらいスケールのある歴史的出来事なのだろう。
中世西ヨーロッパのキリスト教世界は教皇(聖)と皇帝(俗)の二つを中心点とする協調・対立・妥協が循環する楕円構造にあった。最強の国家だったドイツは神聖ローマ帝国の盟主であり、その「皇帝」はキリスト教世界の頂点に立つ「教皇」を保護し、支配してきたのだった。しかし、このように世俗世界の頂点を象徴する「皇帝」が他の領主国を牽制できた時代はすでに終わっていた。フランス、イギリスの新興勢力の勃興である。1309年フランス人教皇のクレメンス5世はフランスのアビニョンに教皇庁を移し、後70年間、歴代教皇はフランス王権の強い掣肘下に置かれた。これはアビニョン捕囚と呼ばれる。教皇はその普遍的権威を失墜、ドイツ皇帝の教皇庁離反を招く。聖と俗との緊張関係これがこの物語にあるひとつの対立構図である。1322年、教皇ヨハネス22世はドイツ皇帝ルートヴィヒを破門した。そしてこの物語では、1327年、両者和解の会談がパスカヴィルのウィリアムの仲立ちで開催される。皇帝の退位を阻むために。開催地は北イタリアの山中、怪しげな僧院を予定した。

ひとつのテーマはキリスト教に内在する世界観の相違である。この対立はお互いに相手を「異端」としてレッテルを張ることに始まり血で血を洗う殲滅消耗戦へ拡大するものなのだ。教皇庁を頂点とした聖職者は富と権力を握り腐敗堕落が目に余る。フランチェスコ会の創始者聖フランチェスコはキリストの愛は清貧を旨として生きる人々にこそ実現されると説いた。既成秩序とは敵対しかねないこの教義によってフランチェスコ会は強大な勢力となった。そしてドイツ皇帝は政治的思惑からこの会をバックアップすることになる。ウィリアムはこの会の優等生であり、彼の真の狙いは教皇庁にこの思想を公認してもらう妥協点を探ることにある。
教皇庁代表は枢機卿のベルトランド・デル・ポッジェットェットに異端審問官・ベルナール・ギー(冷酷無比の理論家)が補佐する。フランチェスコ会代表は同会総長のミケーレ・ダ・チェゼーナとこの僧院に住む反教皇の理論家たちが補佐する。そして会談、ひどく形而上的な論理展開から血なまぐさい過去の引き合いまで、お互いに妥協線を探ろうとする冷静が熱気と狂気と激昂によりいつのまにか恫喝とののしりあいの泥仕合と変化する、この怒涛のプロセスが物語のひとつの大きな山場になっている。論戦の流れを大きく変えるきっかけに連続殺人事件が関連してくると言っておこう。
「宗論はいずれが勝っても釈迦の恥」実はこうしたやり取りは歴史のいたるところで見られた。本質を見失った正統論争とはかくまで悲惨なものなのだとエーコが痛烈な皮肉をこめて描いた風刺劇になっている。ただただ私は鬼気迫る雰囲気を味わった。

この論戦を通じて、また物語の各所においてフランチェスコ会の生成、発展、変容の歴史が語られる。清貧を旨とする高潔な思想は社会運動に発展する。多くの階層を巻き込み組織は巨大化する。既成秩序との協調、対立、妥協、の運動法則から傍流、亜流が派生する。その中からはやがて聖職者や富の保有者は敵だとして破壊、略奪を正当化し、本来の理念とまるでかけ離れて、まさに異端と指弾されても弁解できない暴徒化するグループが現れる。エーコは13世紀を舞台にしつつ「改革・革命運動」に内在する負の反作用を語っているのだ。そしてそれは現代に通じる社会法則でもある。

別の重要なテーマは「宗教と科学」あるいは「精神主義と合理主義」または「信仰と理性」の緊張関係である。科学的思考がキリスト教の神秘のベールをはがしてしまうことへの恐れである。この対立関係からキリスト教と俗世界とのかかわりについて、道徳、芸術、文学、哲学、など人間文化のさまざまの領域について言及がなされる。これも連続殺人事件の重要な背景になっている。「キリストは笑ったことがあるのか?」禅問答は落語のネタになるものだが、これはシリアスな問題なのか?エーコが企んだこんにゃく問答なのか?どこか大笑いすべきところがあるのだろうがそこはわからない。ウィリアムと不気味な盲目の老修道僧・ホルヘとの厳粛かつスリリングな論戦は印象的である。

最後のそして読む人によっては最大のテーマと思われるところで、男と女の関係にある「戒律」と「破戒」の対立構図がある。この作品は「愛」を描いたものだとの見方があるがどうだろうか。若き見習修道士・アドソは物乞いのために聖職者たちに身を売る村の娘と一夜を共にする。それは快楽を伴う初めての経験であった。彼は悪魔の誘惑にのったと罪の意識におののくが、一方でこの法悦感覚こそが神の恩寵であると解釈したりして、煩悶する情景が詳細に記述される。実はアドソは真剣に悩んでいるのだろうが、そんなことが「罪」だとは考えない私にはその苦悩が過剰なまでに理屈っぽくて、大変滑稽に思われた。しかつめらしいストイックな告白なのだがじつは
「老いさらばえてもう役には立たなくなっちゃったけど、あれはよかったなぁ、もう一度やってみたかった」
と述懐しているのではないだろうか。ここは宗教的な「戒律」と「破戒」の特別な問題というより真・善・美や愛の本質に「理性」と「本能」がどうかかわるのかと普遍的な問いかけをしているのだ。

『薔薇の名前』とはなにか。

「過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ 虚シキソノ名ガ今ニ残レリ」

このフレーズはやはりわからない。この物語の棹尾を飾るスペクタクルシーンに衝撃を受けた直後にはこんな東洋的なイメージが浮かんだ。

「夏草や 兵どもが 夢の跡」

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