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zoom RSS 辻原登 『許されざる者上』 戦争と恋。自由へと許されざる者たちの魂の鼓動を描く大浪漫

<<   作成日時 : 2010/05/24 12:18   >>

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頭山満の日露開戦論に森宮の人々は熱狂した。ドクトル槇の声がひびいた「戦争を扇動するのは悪徳の人で、実際に戦うのは美徳の人である。」場内は凍りついた。玄洋社の集団が腕まくりして槇に詰め寄る。それを地元ヤクザ中駒組の若衆が取り囲む。「おっしゃられたことは正しいとつくづく思いました」彼に恋をする永野夫人の澄み切ってうるおいのある声があった。そして私は自由を求める魂の鼓動とさわやかに共振している。

最近の仲間たち。酔っ払うとついつい現政権に対する愚痴がこぼれ出る。政治・経済・外交と仲間たちの無責任にして奥深いその清談の種はつきない。普天間基地や北朝鮮の魚雷攻撃に、なかには核をもたなきゃ話にならんとの過激な発言まで出る。
やがてお定まりのシモネタ猥談から一転して戦争と恋などと高尚にテーマが拡大したところで
「ところで日露戦争と大逆事件をバックに軍人の奥方と医者との道ならぬ交情を描いた、とんでもなく面白い小説を読んだよ。紀州の新宮が舞台なんだが、新宮ってところはかなり進んだところだったのかな」
と言い出したところ、この中のお医者さんの一人が
「新宮は幸徳秋水とはなにか関係があって、そこのなんとかっていう医者がなにかのかかわりから死刑にされたという話は聞いたことある」
といい加減なところは多いのだが、驚くべき知識が披露された。
なるほどこの主人公にはモデルらしいものがあったんだ。だからこんなにまでのディテールが成功したのだと納得しながら、そこで
「当時新宮にはオートバイが走り、洋館があって、人々は紅茶をたしなみ、街のレストランではフランス料理のフルコースが食えたのかな?」
とこの小説を読んで思った最大の疑問を口にする。
と、このお医者さんが
「あそこは昔から田舎よ。そんなことは嘘だな」
とおっしゃった。

ところでこれはモデル小説とはいえないだろうがそれらしいところがあって、歴史小説といえないことはないほど時代背景は詳細である。だからこんなことを感じることになるのだが、読んでいてこれって本当のことかしら?と首をひねる箇所がいくつもあった。
ところが、それでいて違和感を覚えさせないのだ。

舞台は紀州・森宮とあるが新宮でないはずがない。いや、新宮のはずはない。
嘘と真をあや織りにした絢爛の虚構空間である。しかしそこには事実に裏付けられた日本の縮図があった。おそらくだから違和感がないのだ。この虚構の世界を生きる人々を描いて、人間が前進していく真実とその人間のなす最大の愚行・戦争の真実を語った大浪漫なのだ。

明治36年、インド・ボンベイ大学で脚気医療を学んだ槇隆光が故郷・和歌山県森宮へ到着する。ここからこの壮麗な大浪漫は始まる。34歳の彼はすでにアメリカでオレゴン大学のドクトルの学位を得、カナダ・モントリオールの病院で診療経験を積んでいる。被差別部落への医療活動に熱意を燃やし、毒取ル先生と一帯の住民から親しまれる青年は旧森宮藩医の家柄で資産家一族のひとりである。
新築の大邸宅はイタリアン・ヴィラとコロニアルスタイルの折衷で回廊のアーチが優美な連なりを見せている。ガス燈がならぶ街頭で愛馬ホイッスルと外国製二輪馬車(トンガ)を颯爽と疾駆させる。隆光の経営するレストラン・太平洋食堂のメニューはマヨネーズサラダ、コンソメ、ポタージュ、オムレツ、ミートパイ、ビア・ソーセージ、ビーフステーキ、内臓料理。
兄・芳久は薬局を営むが自宅兼店舗はおおきな六角形の洋館である。芳久もまた外国製小型二輪馬車(カレーシュ)を御す。
隆光の甥・若林勉、先進の設計建築士。潮岬に広壮な屋敷を構える若林家の長男でアメリカから個人輸入したオートバイで疾走する。
隆光の美しい姪・西千春はこの恋の物語のもう一人のヒロインである。彼女が隆光を港に迎えるその姿は
「鳩羽色の絹を張ったパラソルを開いていた。くっきりした目鼻立ちにやさしげな陰影がうまれる。すきとおった光と柔らかな風が白いワンピースのからだを包んだ。」

私は新宮市の郷土史をまったく知らない。だが、たとえ明治の<後期>といえども、これが新宮の風景だとは到底思えなかった。明治初期の文明開化を描いた錦絵を思い描くと、たしかに東京では洋館が出現し夜はガス灯がともり、鉄道馬車や人力車が走り、洋服姿の官員や紳士たち、パラソルを手にしたロングドレスの淑女らが闊歩している。食生活でも牛肉やパンを食べるようになり、そのほかさまざまな面で新しい生活や風俗が出現した。しかし、そうした文明開化の世相は東京でも日本橋近辺の一部に限られたものであり、実際はまだ江戸時代そのままの姿を色濃く残していたはずである。

やはりここは新宮ではなく虚構空間の森宮に他ならない。最近著者の名前をもって○○ワールドとその小説世界を称える表現を目にするが、これほどその種の名づけに値するものはあるまい。まさに辻原ワールドである。新時代を象徴する文明の形とあるいはもっとその先をいく文物・カルチャー・精神をてんこもりした仮想空間である。そこでは時は現実の流れより一拍早めに刻まれる。江戸時代の因習が残る偉大な紀州の一角に、辻原は明日を刻む未来空間を現出させて見せたのだ。この辻原ワンダーワールドに驚きと感動をもって誘い込まれようではないか。

私にとってこの作品をどう受け止めたかを語るのはとても難しい。それぞれの現実に生きる主人公が何人もいる。それぞれが一編の完成した小説になりうる波乱のエピソードがいくつもあってそれらが独自のテーマを構成しているように思えるからだ。小説をつくる著者の抜群の才能によるものなのだが、一つ一つが実に贅沢な内容であってまさに酩酊するの心地である。

身分制と領主制で成立していた幕藩体制。そして今は絶対主義国家体制を構築中の明治時代。やがて民主主義が成立する流れにある。歴史を区分的にとらえるならばこれでいいのだろうが、現実の生活感覚は歴史区分の段階的な変化を受け止めることはない。無段階のグラデーションの中にあって、変化に気づかないあるいはさほど実感しないものが多いはずだ。だから登場人物たちが立脚している主観的時間軸はさまざまなのだ。江戸時代の人、この時代の人、未来の人が同居して、矛盾をはらみながら結局は折り合いをつけているのが森宮の世界である。

主人公のひとり槇隆光の精神は未来人である。自由な魂の持ち主である。「許されざる者」である彼は姦通という桎梏からの解放を求めてこのストーリーを引っ張る。当然であるが自由を求める魂の飛翔はプライベートなロマンスにとどまらず、時代という桎梏からの解放であり、歴史を前進させる活動に及んでいる。その魂の鼓動を私は揺さぶられる思いで受け止めていた。

しかしそれだけではない。それぞれにタブーがありそれだけのさまざまな自由がある。「許されざる者」とは誰を指すか?タブーを犯すものであり、自由への踏み出すものであるとすれば、槇隆光だけを指すものではない。この物語に登場する人々すべてが「許されざる者」だった。誰がどういうタブーをどのように犯していったか?それぞれをじっくり味わうとしよう。それが楽しめる仕掛けがほどこされた、これはやはり贅沢な小説である。

客観的な時間の流れと主人公の主観的時間軸のズレに関しては蛇足ながら先日読んだ橋本治の『巡礼』と同様の組み立て方を見る思いがした。『巡礼』が過去へ過去へと向かう重苦しさなのだが、『許されざる者』は未来へ未来へと向かう爽快さがある。


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