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zoom RSS 木内昇 『漂砂のうたう』 「自由」という虚構に踊らされる人々

<<   作成日時 : 2011/03/29 09:15   >>

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画像漂砂? なじみのない言葉だ。スーパー大辞林によれば「波浪・潮流などによって流動する土砂。また、その移動する現象。河口・港湾などを埋積したり海岸を浸食したりする。」とある。
「漂砂のうたう」?
流れのままに動かされるだけのちっぽけな存在が索漠たる思いを抱えて人生をやり過ごしている………とも思えるが。それだけではなく、ちっぽけな存在であるが、それらがあたかも海岸や河岸を削るように事象のどこかに痕跡を残すのだともとれる。

この作品の舞台は根津遊郭だが、私は中学生のころ、隣接するところに住んでいたのでここは懐かしい思いのする一帯だ。作品にも登場する大籬・大八幡楼に帝大の学生であった坪内逍遥が通いつめ、そこの娼妓・花紫を嫁とりしたという話を聞いたことがある。
時代は明治10年ごろ、当時帝大が近くにでき、大学生が通うようになったというから、遊郭といっても、松井今朝子『吉原手引草』『吉原十二月』の隆盛とは昔日の感がする。
集英社の紹介 
江戸から明治に変わり十年。御家人の次男坊だった定九郎は、御一新によってすべてを失い、根津遊廓の美仙楼に流れ着いた。立番(客引)として働くものの、仕事に身を入れず、決まった住処すら持たず、根無し草のように漂うだけの日々。ある時、賭場への使いを言いつかった定九郎は、かつて深川遊廓でともに妓夫台に座っていた吉次と再会する。吉次は美仙楼で最も人気の花魁、小野菊に執心している様子だった。時を同じくして、人気噺家・三遊亭圓朝の弟子で、これまでも根津界隈に出没してきたポン太が、なぜか定九郎にまとわりつき始める。
吉次の狙いは何なのか。ポン太の意図はどこにあるのか。そして、変わりゆく時代の波に翻弄されるばかりだった定九郎は、何を選びとり、何処へ向かうのか
御家人くずれの定九郎を中心としてその兄政右衛門。出自が底辺層のものたちとして妓夫太郎・龍造、花魁・小野菊、遊女・芳里、賭博場仕えの長州人・山公、寄席芸人・ポン太ら。それぞれの人物像は時代背景を投影し、くっきりと浮かび上がる。

明治9年(1876年) 華士族の家禄を廃止、公債を授与。数年で尽きる額で放り出された士族の零落。不平士族の乱だ。熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、そして西南戦争。
福澤諭吉の 『学問のすすめ17編』『文明論の概略』もこのころだ。

「自由」という虚構に踊らされる人々を活写する。

遊女はどうであったか。明治5年娼妓解放令があった。しかし、遊郭がなくなれば、稼ぎも居場所もなくなるのだ。自由なぞどこにもなく、結局は苦界の他に生きていく場所がなかった。

半農半漁の生活から江戸に登った長州人山公はどうであったか。
なんとかしにゃならんのう。さすが賭場の番人で一生を終えとうないわ。今はもう身分の壁がない自由な世じゃ、なろうとおもえばなににでも………。せーけどこれがよ、女のひとつでも抱くともう万事どうでもよくなりよる。
そして御家人くずれの定九郎は
意思とは関わりなく流され続ける。一生そうして過ごしていく。生簀から出ることを自由だとすれば自分はきっと、何度となくそれをつかみ損なって死んでいくだろう。脱ぎ捨てたはずの過去に縛られて誰かが不自由になっていく様を心に願い、励みにしながら、己が消えてなくなるまでの時を息を潜めてやり過ごすのだ。
いっぽう、龍造は現実から逃げない、現実を受け入れそこにしっかりと足をおろして生きている。

大変革期の陰影を明治の遊郭という場を借りて、執拗なまでに露出する。登場人物のすべてが「生簀の金魚」「籠の鳥」。だが、この焦燥感・閉塞感に向き合う姿勢が様々なのだ。著者の手腕であろう、その違いが浮き彫りにされている。読者はそこでどこか現代と通ずる群像をリアルに見るのかもしれない。この詳述が物語の前半で、ストリートしての盛り上がりがないがじっくりと読ませるところだ。

さて物語の前半が囚われ人たちのうめき声であるなら、後半では目処のつかないそれぞれの逃走があり、ひとつひとつに哀歌が奏でられるのだが、打って変わったスピーディな展開はスリリングであり一気呵成に読み終える。

寄席芸人・ポン太は実体なのか、定九郎の神経が生んだ幻なのかと、そのあいまいな存在が定九郎を手玉に取り、名人・三遊亭円朝の語る怪談話と同時並行で操る、ある逃走劇である。松井今朝子『吉原手引草』と四つに渡り合う、この凝りに凝った趣向は大いに楽しむことができた。

ラストも上出来だ。
三遊亭円朝が落語中興の祖といわれるゆえんのひとつに、師匠自ら「速記本」を普及させたことにある。これは辻原登『円朝芝居噺 夫婦幽霊』の受け売りだが………。
その速記の助手役にはなるほどこの粋なお方がいたんだ、と私は思いをめぐらせます。
そして、その方の来し方行く末には、定九郎だって「漂砂だって河岸に削り跡を残すぞ」と、うたうはずです。

蛇足ながら一言
私は黙読と言っても頭の中では音読する性質で、すらすらとは読みにくい文体だった。とくに、いろいろな出自の人物の話す言葉だが、個性をそれなりに正確に文章で表現しようとする工夫がむしろ逆効果で、立て板に水の会話になっていないところが気になってしかたがなかった。

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