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zoom RSS 安部龍太郎 『葉隠物語』 今、武士道が見直されている??? 小説好きの読者向け、葉隠れ入門書

<<   作成日時 : 2011/05/20 20:45   >>

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「葉隠」については詳しくない。ただ、その語感にはつつましさに潜む熱い思いがある。いつのまにか失ってしまった日本人の美徳を象徴しているようで、引きつけられるところだ。時代小説では葉室麟が描いた『いのちなりけりにあった葉隠には共感するところが多かった。
ところが一方で、最近評論家の語るあるべき国家論やあるべき日本人論のなかに、よくこの葉隠精神をみかけるのだが、そこにはなんとなく胡散臭いものを感じるのだ。どうやら現代人の立場からは適当につまみ食いができるあいまいな主張の寄せ集めのようで、興味があったものだから、歴史小説家の安部龍太郎がこれをどういう具合に料理したのかを確かめたかったのである。

本著では、「葉隠」は鍋島藩の元武士・山本常朝が語る彼の見聞や体験を弟子・田代陣基が筆記し、享保元年(1716年)ごろに完成、鍋島藩主・宗茂へ献上されたものしている。
第一話から第二十三話と終章、本著は二十四の逸話からなる。
おそらく逸話のすべては「葉隠」に記されたものであり、これを安部龍太郎の筆が小説として構成したものだろう。安部は山本常朝が抱いた当時の武士のあるべき姿をできるだけ忠実に表現しようとしている。著者が著者自身の現代的解釈をあえて回避しようとした姿勢に好感が持てる。いわば実話のエピソード集であるから、一つ一つの逸話は創作が生み出すような劇的展開はないのだが、葉隠研究者はともかく小説好きの読者が好奇心から手にするにはちょうどよい「葉隠入門書」といえる。

第一話「沖田畷(なわて)」は秀吉の統一前夜。まだ九州地方が群雄割拠の戦国の地であった、天正12年(1584)ころのお話。島原の領有を巡り、薩摩・有馬連合に龍造寺とその一門であった鍋島家が戦を起こす。肥前の熊と言われた龍造寺隆信の無謀な作戦を家来筋である鍋島直茂(鍋島藩の藩祖)が死を覚悟して諌める。さらに戦場では変わって直茂が短慮で突っ走るのに対して、家臣である中野清明(山本常朝の祖父)が「馬鹿を申されるな、肥前を見捨てるのか」それはならぬと力でねじ伏せる。
主君と忠臣がいる。主君の無謀や短慮に忠臣はお手打ち覚悟で諫言する。主君は後に彼を忠義の士として認めることになるのだ。常朝は死を賭した家臣の行動を武士のあるべき姿として称賛している。そしてこのパターンはその後の逸話でもたびたび登場するのである。
時代小説、歴史小説に限らない、義を貫く男の生き方を描いたものなら現代小説にもあって、私は優れた作品の場合は共感することも多いのだが、どうも今回の場合はかなり異質なものを感じた。家臣は主君が名君であるか暗君であるのかは問わないこと、主君の誤った判断についてはその責任を追及しないこと、そして一身を捨てあらゆる手段を講じて「お家」の安泰を図ること、を美徳としているからである。

鍋島藩、藩祖・直茂の時代が終わり、初代勝茂では第十一話から第十三話の「島原の乱」、寛永14年(1637年)があったが、それは戦乱の世の終結点である。以降、武士は文字通り命のやり取りをする戦闘員であると同時に為政者的性格を持つようになったはずである。だから私は、第十四話からは、鍋島藩主について、人心をひきつける指導者的徳性が語られるものと思っていた。だが、「葉隠」では為政者としての君主のあるべき姿は説かれていない。逸話として表れる内政問題は、領国の安定と繁栄という高い次元の政治課題ではない。幕府との確執、龍造寺家と鍋島家との主導権争い、後継者問題であり、いわば「お家の事情」が逸話を中心となる。そして勝茂は読者から見れば決して英明な君主ではなく、むしろ凡庸さが目立つ人物なのである。君主論はなく臣下論なのだ。成功を収めた判断はすべて殿の叡慮であった、失策はすべて臣下の不覚であったことが、第三者に理解されるよう周到の支度を整えなければならない。そして成功の手柄をひたすら隠す謙虚・謙譲、失策にはいかなる責任をも引き受ける死の覚悟、潔さ、これを平常心において実践するが武士の誉れとされる。裏を返せば、死の覚悟であたればなしえないことはなく、それは生を全うすることなのだ。そして隠れた忠義心はやがて主君の前に現れることになり、忠義の士として顕彰されるというのが、この武士道論の底流に存在する。事実、この逸話に登場する忠臣たちはみな殿様からお褒めをいただいている。

ところで平安末期に誕生した武士階層は当初は朝廷につかえる戦闘員であったのだが、やがて、朝廷から政治権力を奪取する。しかし精神文化の中心は引き続き貴族階層が担っていて、自分たちには欠けているとのコンプレックスをいつまでも払拭できなかったのだ。猿真似から始まった「文化」であり、いつ武士が文化発信の中心階層であると自負できるようになったのかは知らないが、少なくとも、徳川時代の初期はまだまだ文化コンプレックスが強く残されていた。
「葉隠」を『葉隠物語』として、全体をこの流れにそって組み立ててみせた安部龍太郎の着眼と構成は並みの鋭さではない。 

すなわち、軍事・政治にくわえ、二代光茂の治世では文化の担い手という役割が強調される。文化を「葉隠」は歌道で象徴する。武道、政道、歌道の三点セット。
飾り帯のコピーには
しかし、時代は大きく変わる。二代光茂は武断な家風を厭い、追腹(殉死)を禁止、自らは命を懸けて和歌を極め、古今伝授の秘伝を受け、超一流の文化人となる
とある。
第二十二話「骨髄に徹す」第二十三話「古今伝授」がこのくだりである。大納言三条西実教が歌道の奥義・古今伝授は西三条家と仙洞御所だけに伝わる秘伝であったのだが、この秘伝を光茂が伝授されたのである。
「つまり、鍋島家は仙洞御所や三条西家と肩を並べる文化の名門になったのである。」
ただ、この逸話を素直に読めば光茂が歌道を極めたほんものの文化人であったとは思えないのだ。公家たちの面談テストに臨んだのは家臣である常朝であり、また常朝が公家に大量の賄賂を贈ったことが語られている。常朝の働きはこの文化活動においても死と一枚になり死身に徹したものであり、これが忠孝の道と説かれるのだ。が、私は彼の行動をサラリーマンとしては尤もの働きであり、共感もする。処世術としては妥当だとの思いはするものの、感動をおぼえることはないのだ。

ところでこのくだりには別に興味深い見解と出会った。
葉隠には「忍ぶ恋こそ至極の恋」という武士道らしからぬ箴言があるが、その意味がようやく理解できたような気がした。
主君と臣下の関係は臣下の絶対服従という上下関係なのだが、一方では双方が「情」を通わせている関係であることを重要視していることだ。その情も一方ならぬものであり、「恋情」に近い濃厚なものなのだ。光茂と常朝がその典型であり、衆道の関係をにおわせている。しかもこの交情を秘することが武士の道だとする。「忍ぶ恋こそ至極の恋」とするのもなるほど武士道なのだと納得した次第。

「葉隠」は他にも、威厳、矜持、廉恥、容貌や言葉遣いや起居動作による強みの発揮、礼節など多方面にわたってあるべき姿が説かれている。ちょっと前のことだが、朝青龍騒動にあった相撲道によく似ているね。そしてこれらを個々にとりあげれば、なるほど現代人にこそ求められるエッセンスであるかもしれない。今こそ武士道!などと葉隠再評価もわからないわけではない。ただこの『葉隠物語』読めば、あくまでも江戸時代初期という時代の枠の中での思想だと理解できるのである。葉隠礼賛もいいが「誰のための武士道であったか」をよくよく考慮しなければならないだろう。

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