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zoom RSS 五木寛之 『親鸞 激動篇』 「鬼神を敬してこれを遠ざく」の親鸞。専修念仏の布教の前に立ちはだかる障壁

<<   作成日時 : 2012/02/06 22:58   >>

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死後の世界など無頓着であり信仰に救済を求めるなどまったく考えられない私ですが、実際には大勢の人が神仏に祈りをこめる向き合い方をしている。科学万能の現代でなお科学者のなかには真理の究極に霊的存在を認める方がおられる。身の回りを見れば、私だって墓参もすれば葬儀もあるという具合に日本人の生活様式に深く組み込まれている。また政治や国家、民族の動向に宗教が強く関わっている。さらに宗教にある熱狂が個人に限らず集団の暴力を生み、民族・国家間の戦争すら引き起こす。
信仰心のないものでも宗教に強い関心を持たざるをえないのはこんな広範で強力で持続的パワーがあることからだ。
それにしても宗教とはなんであるのかは不可解でしかありません。


前作『親鸞』は、専修念仏による悟りを得るまでの若き日の親鸞でした。もっとも、悟りにも段階があるようですから内面の困惑はまだまだ続くのです。五木寛之は平易な文体で法然と親鸞の道を語りました。親鸞が悟りを得るまでの一段一段で描写される清らかな情景には闇にある人間を導く光をみる思いがしたものです。それは理屈ではありません。五木の描いた親鸞には信仰心のないものでも引き込まれる魅力があったからです。

『親鸞』はそれで完成されたものと思っていたところ、続編として本著が刊行されました。
前作『親鸞』で親鸞は阿弥陀仏に導かれた自分自身の救済を確信しました。『親鸞 激動篇』で親鸞は自己救済にとどまらず次の飛躍をなそうとします。死ぬも地獄、生きるも地獄にある底辺の庶民を救済したい。そのため、彼らと間近に接し、人々にも自分と同様の確信を感得させたいとの強い思いから、その実践をスタートするのです。
つまり『親鸞』は「覚醒篇」であり『親鸞 激動篇』は「布教篇」といえるでしょう。

しかし布教活動で親鸞の懊悩は増すばかりなのです。
なぜかと私が推測するには、五木親鸞は「嘘も方便」という宗教者の微妙なアピール方法を知らないようです。しかも近代哲学者ともいえる思考を持つ、悩めるインテリゲンチャーだったからではないでしょうか。
だからどうしてもこの『親鸞 激動篇』には理屈っぽいところがあります。専修念仏の思想体系はどうなっているのだろうなどと、いたずらに興味が先行して、心のおもむくままにロマンを楽しむという読み方はできませんでした。

死を目前にした病人たちから念仏で病は治るか?と尋ねられれば 五木親鸞は「よくなることはない」と答える。
子を売らねば生きていけない貧困にあえぐ人々から念仏すれば暮らしが楽になるか?と問われ「いいえ」と答えるのが五木親鸞です。
日照りの時に念仏で雨を降らせてくださいと懇願されても「できない」と明言する。
「怪力乱神を語らず」、人間を超える能力を否定し、不合理な現象を認めない人物が親鸞なのです。

この合理性で布教ができるのかしらと心配してしまいます。

一般的に人々が宗教に求めるものは今も昔も現世利益なのだ。ありがたい超常現象を期待しているのです。親鸞が語ろうとしている純化した専修念仏のありがたさは到底理解されなかったのではないでしょうか。まして土着の迷信が生活の隅々にあり、加持祈祷に日ごろから頼っている底辺層の人々のことだ。念仏により浄土に導かれるというきわめて抽象的概念を理解させようとする布教活動がとてもとても容易なものではないということは推測がつきます。親鸞は充分にこれをわきまえてなおかつやり続ける。

既成の宗派からは敵視され、武士集団からも命を狙われる。逆に彼を利用しようとする領主も現れる。権力には距離を置いておきたい。ところが布教のためには有力筋の支援者が必要だとも思えてくるのが人間・親鸞です。

「他力本願」「悪人正機(善人なおもて往生をとぐいはんや悪人をや)」というきわめてパラドキシカルな究極の教えは、未消化のままに世俗世界ではむしろ怠惰を助長し、淫乱邪教を生むことにもなった。

『親鸞 激動篇』ではこのような混乱に満ちた布教活動のエピソードが各所で語られます。私は興味深く読みましたが、生臭い現実と向き合うピュアな五木親鸞、彼の混迷はますます深まる一方のように思われました。ただ彼は自らが招く混乱にひたすら正面から向き合うのです。

五木親鸞が迷うほどですから、私は当然に混乱してしまいました。そのせいでしょう、浄土宗、浄土真宗についての分析的読み方から抜け切れませんでした。
たとえば、十悪五逆の極悪人でも念仏すれば救われるとする帰結、この論理はどのように組み立てられているのだろうか。
超常現象を否定したところにある浄土往生とは何をさしているのだろうか。
五木親鸞はこれにどういう回答を用意したのか。
明快な結論があったような、ないような。私の論理思考の混乱はいまでも解消されたとは言えません。

ただ五木親鸞の語りにあって、こんなところがひとつのポイントかもしれないと勝手に解釈しました。
念仏する者も、それを信じない人も(臨終ののちには)ひとしく人は浄土に往生するのだよ。………(ただし)見えない阿弥陀仏を信じ、念仏するものは………(臨終を待つことなく)いま、その時に………阿弥陀仏という仏に抱きしめられて浄土へ往生する身なのだ。
親鸞はなんどか絶体絶命の危機に遭遇する。しかし、なんにんもの人たちに助けられ、都度命拾いをします。その人たちは専修念仏を理解している人というよりも、親鸞という人間に親しく接し、彼を信頼しきっている名もない人たちです。不条理の中で苦闘する親鸞の、しかし一貫している純粋なありように触れて、心服するに至った下層の民衆です。彼らは親鸞に発現しつつある仏性を感じ取っているのでしょう。そしてこの総和が阿弥陀仏による救済の実現なのかもしれません。

深い信仰心ある理性に対して働きかける仏説の精妙な真理とは、おそらく言葉という形では説明できないものなのだろう。言葉にしたら嘘になる、そういうものなのだろうと思う。そして阿弥陀も念仏も浄土も知らない信仰心のないものにとって、五木親鸞のこの語りは「闇の中にあってでも生きろ、生きて光を見出せ」という力強いメッセージに通じるところを感じさせます。
他力本願の裏返しにある自己確立による自己救済であり、それこそ時代をこえた生命讃歌だと私には思えたのです。

蛇足になりますが、
前作『親鸞』は痛快時代小説としても傑作でした。本著は頭の体操としての面白さがありましたが、痛快さという点では前作の二番煎じのようなところが気になりました。


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