日記風雑読書きなぐり

アクセスカウンタ

zoom RSS 火坂雅志 『軍師の門 下』 一筋縄ではいかぬ官兵衛という人間の解釈

<<   作成日時 : 2014/06/04 13:19   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

画像
「調略」あるいは「調略する」とは策略をめぐらせて敵を自滅に追い込む頭脳戦のようで、正々堂々の横綱相撲とは正反対の語感がある。しかし、兵力の差がそのまま戦争の勝敗を決めるのであれば歴史に驚きはないし、まして小説としてはできの悪いものになってしまうだろう。
秀吉はもともと調略戦を得意としていたものだが、有岡城から生還した官兵衛を重用することにより着実に天下取りの道を歩めることになった。敵を殲滅する信長の時代は終わり、敵を味方にする秀吉流の統治の時代が始まった。
有岡城から生還した黒田官兵衛は、竹中半兵衛の死を知ると同時に、その意志と豊臣秀吉の軍師の座を引き継ぐ。稀代の謀略家として恐れられる一方信義を重んじ、敵将からも信頼される官兵衛。しかし秀吉は、己の権力が強大になればなるほど、彼を恐れ遠ざけてゆくのだった。秀吉亡きあと、官兵衛(如水)は、はじめて自らの野望を関が原に賭すが……男たちの戦国絵巻を圧倒的スケールで描く傑作歴史長編。
信長、秀吉、家康ら覇者たちを中心にした物語だけがインプットされていたためだろう、半兵衛や官兵衛の視線で描かれた秀吉の中国、四国、九州制覇のプロセスにはわたしの知らなかった劇的展開がいくつもあって、その発見だけでも十分に読みごたえがあった。

たとえば天正9年(1581)の因幡国の鳥取城攻略(鳥取の渇え殺し)である。官兵衛の献策によりあらかじめ若狭国などの商人に周辺の米を買い占めさせたうえで完全に包囲して補給路をたったのだがこれ、は経済を武器にした現代的発想だ。

天正10年(1582)、清水宗治の拠る備中高松城を攻めるとき、水攻めが有効であることを秀吉に献策した。本能寺の変で信長が殺されたことを知って途方にくれる秀吉に、「あなたさまの目の前に天下への道がひらかれようとしているのです」と天下どりをけしかけた。なるほど秀吉の野心に火をつけたのは官兵衛であったか。

いわゆる「中国大返し」のストーリーはこれまでいくつか小説で読んでいるのだが、これほど緻密な構成にお目にかかったことはない。明智光秀、高松城の清水宗治、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春らの絡みに、安国寺恵瓊という傑物の軍師と腹を合わせた官兵衛。あの「大返し」が成功裡に成立した裏側にこんな事情があったとは……実に説得力がありました。

黒田官兵衛とはどういう人物であったのか。火坂雅志は判で押したようなわかりやすさでは描いていない。そこが面白い。
秀吉が天下統一を成しとげたとき、秀吉は官兵衛の智謀をもはや必要としない時代が到来したと判断したのだろう、彼を疎んじはじめる。官兵衛の智謀が敵として自分に向かうのを恐れたのだ。それを知る官兵衛は一切の欲を離れ、心を澄んだ水の如くなすと如水を名乗る。しかし官兵衛は官兵衛で秀吉を出し抜き、落とし入れ取って代わることができると自負しているところがあるのだ。だから秀吉の死後、関が原合戦のころ彼は九州を制圧しその勢いで天下を狙う博打に打って出る。地方からの天下簒奪である。
「解説」の縄田一男氏によれば信義、義侠心だそうだが、そう単純な男とは思えない。
「軍師は政治家ではない、むしろ芸術家に近い」と官兵衛が述懐するくだりもなかなか一筋縄では解釈しがたいところだ。

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
火坂雅志 『軍師の門 下』 一筋縄ではいかぬ官兵衛という人間の解釈 日記風雑読書きなぐり/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる