日記風雑読書きなぐり

アクセスカウンタ

zoom RSS 神田川遡行 その十一 (ゴール) 晩秋 井の頭公園

<<   作成日時 : 2014/12/30 01:31   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

画像
夕やけ橋の手前からはもう井の頭公園の敷地になる。
井の頭公園、正式には井の頭恩賜公園は大正6年(1917)に開園した都立公園で、徳川歴代将軍が鷹狩りをした場所でもある。御殿山という地名は、家光の鷹狩の時の休憩所があったことに由来する。三鷹という地名も同様だ。
古くからこのあたり武蔵野の段丘の崖下には湧水が多かった。ここ井の頭の池も、三方を段丘に囲まれた小さな谷の窪みにあたる。奥には良質の湧水口であった「お茶の水」がある。そしてここが神田川の源流でもある。
画像神田川遡行その一の「お茶の水」ほど名は知られていないが、江戸市内の水道水の源泉とされる良質な湧水であった。
「お茶の水」の由来
その昔、当地方へ狩りに来た徳川家康がこの湧水の良質を愛してよく茶をたてました。以来この水はお茶の水と呼ばれています。
東京都

JRのお茶の水は秀忠が名づけ親だから、家康による井の頭のお茶の水の命名のほうが早いといえそうだ。
画像今日は「夕やけ橋」から歩く。 もう神田川にはコンクリートの垂直護岸壁はなくなります。カサカサと枯葉を踏んで流れの淵をたどる。
手を伸ばせば水に触れる。田舎の小川の風情を楽しめる。プロムナードを歩めば初冬の憂愁を感じる。それは人工的なものではあるが、自然環境の落ち着きをしみじみと感得できるのだ。公園内での神田川の整備の仕方は、素晴らしい。


井の頭線の高架をくぐれば 139 よしきり橋だ。
画像銘板はないが「よしきり橋」である。

ところで「よしきり」と言えば
三波春夫「大利根無情」だな
利根の利根の川風 よしきり
声が冷たく身を責める
………
天保水滸伝の舞台は私の故郷の近くである。
落葉を踏みながら三波春夫の口上も思い出した。
平手造酒も、いまじゃヤクザの用心棒
人生裏街道の枯落葉か
よしきりとは野鳥の葦切(ヨシキリ)らしい。騒騒しい鳴き声で俳句の夏の季語にもなっている。葦を切り裂く音からきているとも言われている。葦(ヨシ)はアシなのだが、「悪し」に通ずるのを忌んで「良し」に言い換えた語なのだ。土着の臭いがいい名前だなぁ。

とうとう140 水門橋へ着いた。
画像
水門橋は井の頭池の東端にあって、池と神田川を分かつ最初の橋です。水門橋のたもとの案内には「ここが神田川の源流です」とあった。この流水口付近ではここまでの神田川にはなかった意匠ではあるが、大きな石を敷き詰めていかにも清流の源であるかの風景を演出し、いい塩梅で山奥の風情を醸し出している。



さてこれからそぞろ歩き、井之頭公園の秋色を満喫しよう。
赤と緑のもみじ。黄色の大木は銀杏。赤茶けた枯葉の幾枚をようやく枝にとどめている桜。流れに浮かぶ色模様。きらきらとしながら目に届く木漏れ日。穏やかの水面が輝き、噴水の飛沫が岸辺の紅葉の枝に降っている。たまには当てもなく歩くのはいい。間もなく冬を迎えようとする木々の隙間に侘しさを感じながら………。



かくして神田川遡行は終えたのだが、井の頭弁天に参詣するのを失念していたことから、暮れも押し詰まった12月24日、再び井の頭公園を訪れました。

江戸市中の水源の守り神・井の頭弁財天
画像画像画像
この神社の歴史・伝承と神田川とは深い縁で結ばれており、興味は尽きない。
そもそも「弁財天」だが当社のホームページから適宜引用すれば
弁財天(弁才天)はもともとはインドのヒンドゥー教の神様サラスヴァティーです。 このサラスヴァティーとは聖なる(豊かなる)河といった意味で、水の神様とされてきました。 日本でも、三大弁才天とされている、江ノ島・竹生島・厳島をはじめとして、水のそばにまつられていることが多いですし、井の頭弁財天も井の頭池の中におまつりされています。
もともと河の神様のサラスヴァティーですが、河の(水の)流れの音が、音楽や豊かに溢れる言葉を連想させることから、音楽をはじめとした芸術や学問全般の神様としての信仰も集めました。 また日本においては、農業や穀物の神様である宇賀神と習合して、五穀豊穣の神様としても崇められ、さらには「才」を「財」に置き換えて、財宝を授ける神様としての信仰がもっぱら盛んになったのでした。 井の頭弁財天にも、本堂の裏手に、龍の形をした銭洗い弁天がございます。こちらでお金を洗っていただくと、きっと財産が増えるご利益があるでしょう。

井の頭弁財天は関東源氏の祖と言われる源経基の創建で、伝教太師が延歴8年(789)の作という天女神を本尊に祀ったことに始まる。その後、源頼朝が東国平定を祈願し、その大願成就ののちに改築された。ところが鎌倉時代末期の元弘の乱の際に、新田義貞と北条泰家との対戦の兵火で弁財天は焼失してしまった。放置されたまま時が流れ、3代将軍徳川家光が、寛永13年(1636)に再建したと伝えられている。
現在の社殿は、大正12年の関東大震災で損壊、翌年に焼失後、昭和3年(1928)に再建されたもの。

徳川家康は江戸入府に際して上水道の整備を進めた。その水源として選ばれたのが井の頭池であり、その上水路が神田川であった。家康自身も何度かこの地を訪れ、慶長11年(1606)に井の頭池の水でお茶をたて、その時に使用したとされる茶臼は今も弁天堂に伝えられているのだそうだ。

「井の頭」の由来
弁天宮の脇に「七井不動尊」という小さな社がある。また池の中央を横断している橋を「七井橋」と呼ぶ。井の頭池はかつて7ヵ所からの湧き水があったということで「七井の池(なない)」と呼ばれていた。
さて、将軍の鷹狩り場であったこの地に、寛永6年(1629)に家光が訪れた。
訪れた家光が土地の者にこの池の名前を尋ねたのだそうだ。
「名無い」でございますと返事がかえってきたそうだ。
それでは私が名をつけようと
この池の水は江戸の飲料水の源・神田上水の頭であることから「井の頭」とせよ、と弁財天の近くに立つ辛夷(こぶし)の木の幹に、「井の頭」と小刀で刻んだとか。
その後に家光は寛永13年(1636)、焼失した弁財天の宮社を再建している。

江戸名所となった井の頭弁財天
画像

画像

安藤広重「名所江戸百景 第87景 井の頭の池弁天の社」(秋景)
安藤広重「井の頭の池弁財天の社雪の景」


名所江戸図会「井頭弁財天社」
画像


これだけ将軍家と深いゆかりがあり、自分たちの生活の源でもある。江戸市民の信仰を集めるわけだ。その水源の守り神として、また芸能・音楽の神さらには商売繁盛の神となって、弁財天は江戸期に大いに盛り上がりを見せた。

やや長距離だが行ってみる価値がある行楽地でもあったのだろう、このようにいくつも観光ガイドにとりあげられている。

画像


豊かな湧水を誇る井の頭池の周辺は太古から豊饒な土地であった。園内武蔵野市側の御殿山遺跡からは縄文時代の竪穴式住居遺跡も出土する。江戸時代から大きくジャンプすれば、井の頭池は古くから人間の生活に不可欠な水源となってきたことが窺える。
一方でその水の流れは人々の生活に災害をもたらすこともあったから防災護岸壁で神田川は囲まれることにもなった。
井の頭の湧水も宅地化の進展に伴い枯渇する。いまでは「お茶の水」はポンプでくみ上げた井戸水になっている。
でも人間は自然環境の保護に注力する。
そうした働きがわたしの神田川への思い入れを担保しているのかもしれない。
あらゆる事物をコントロールしようとするのが人間ならば
あらがえない摂理があると気づくのも人間である。
わたしはこの神田川遡行を通じて
人々が神田川とどう向きあってきたのか
その一端を知ることができた。
そしてこれからわれわれは「神田川」と
どのように折り合いをつけながら
歩むのであろうか。

ああ川の流れのようにゆるやかに
いくつも時代は過ぎて
ああ川の流れのようにとめどなく
空が黄昏にそまるだけ

2014年12月24日

詳細は次のアルバムデジブックをご覧ください。






にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
神田川遡行 その十一 (ゴール) 晩秋 井の頭公園 日記風雑読書きなぐり/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる