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zoom RSS 江戸城外堀散策 八重洲口から小石川橋

<<   作成日時 : 2015/01/29 17:33   >>

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画像画像「大江戸歴史散歩を楽しむ会」 渡辺功一リーダーの案内で 古地図を片手に「江戸城の外堀を歩く」。 今回は右図の黄色で塗りつぶした外堀周辺を楽しく勉強です。
八重洲の北町奉行所跡をスタートに呉服橋御門→港屋絵草紙店碑→一石橋→金座跡日銀本店→常磐橋御門→鎌倉河岸→神田橋御門→一ツ橋御門→学士会館→雉子御門→俎橋→堀留橋→飯田町駅跡→小石川御門.

去年は東京駅開業100年だった。呉服橋の会社に長いこと勤務してきたものだが、八重洲口の変貌ぶりにはビックリ。大丸が出店しているグラントウキョウノースタワー、その北隣には丸の内トラストタワー本館があって、さらに丸の内トラストタワーN館が続く。永代通り側にはサピアタワーがそびえる。第一鉄鋼ビルも第二鉄鋼ビルも取り壊されて新たな高層建築が立ち上がろうとしている。なに外国語のビルディング名では名前だって覚えにくいものだ。
さらに驚いたのにはグランルーフという八重洲口の庇のような空間だ。2大高層ビル「グラントウキョウノースタワー」と「グラントウキョウサウスタワー」をつなぐ巨大な歩行者空間で、長さ約230メートルの大屋根と幅最大9メートルの歩行者通路、15店舗が出店する商業ゾーンだ。いつの間にこんなものができたのだろう。
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これが八重洲橋
八重洲口前の大通りは「外堀通り」だが、戦前には外堀そのもの、水を湛えた濠でした。
八重洲橋が架かり、左手には呉服橋が見える。
外堀の埋め立てが始まったのが昭和29年ごろからといわれているので、それまでの八重洲口は正面に橋が架かったこんな風景だったんだ。


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北町奉行所跡
今の丸の内トラストタワーのあたり、その堀に面するように北町奉行所はあった。

この地域は江戸時代には呉服橋門内と呼ばれ、文化3年(1806)から幕末まで北町奉行所が置かれていました。町奉行所は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつで、今の有楽町駅前にあった南町奉行所とここ北町奉行所の二か所に分かれ交代で町人地の行政・司法・警察の職務を担っていました。名奉行として有名な遠山左衛門尉景元は、天保11年から14年(1840〜1843)まで当所で執務していました。
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丸の内トラストタワー本館と手前の工事中の元鉄鋼ビルに挟まれた狭い路地に石積みがある。かつて存在した外堀をイメージしたもので、その一部には鍛冶橋御門(東京駅八重洲南口)周辺で発見された堀石垣を使用し、ほぼ当時の形で積みなおしています。石垣石の表面には傷から他当時の石を割った矢穴がみられます。
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呉服橋御門
橋も門跡もありません。ただ「呉服橋交差点」という名前のみが残っています。
この付近で長いことサラリーマンをしてきましたが、そういうことにはまったく関心がありませんでした。

呉服橋門は寛永6年(1629)に陸奥国または出羽国の大名によって枡形門が築かれた。外濠通りと交差する永代通りを少し入った所に呉服橋門の枡形があった。
門に付属する橋である呉服橋が掛けられていた。

「御府内備考」という資料の「呉服橋御門」の項には、橋の由来が次のようにある。
古くは後藤橋といへり。「寛永中江戸絵図」呉服町へ出る御門なれば呉服橋と唱え来れりと。
「江戸紀聞」今按に、寛永のころ後藤橋と称せしものは、御門外に呉服師後藤が宅地あるよりの私の呼名なるべし。
これによれば呉服橋と呼ぶのは呉服町へ出る門にかかるためで、また寛永の頃に後藤橋と呼んだのは門外に呉服師の後藤家の屋敷があったためとしている。
なお、外堀が昭和29年ころから埋め立てられたため、呉服橋を含めて外堀沿いの橋が次第に姿を消していきました。(千代田区教育委員会)

竹久夢二・港屋ゆかりの地
呉服橋交差点の一角、元は安田信託銀行の本店(現みずほ信託銀行)前にこの碑がある。夢二は商売人でもあったんですねぇ、この絵をよく見ると1914年とある。東京駅開業の年にぶつけてこのおしゃれな絵草子屋を開いたんだ。
情熱と悲愁の画家であり、詩人でもあった竹久夢二(1884〜1934)は、大正3年(1914)この地に「港屋絵草紙店」を開き、夢二のデザインによる版画、封筒、カード、絵葉書、手拭、半襟などを売った。美術家自身がその作品を商品化し販売する店を作ったという点で「港屋」は日本商業美術史上重要な意義を持つものでありその存在をながく記録にとどめるためここにその記念碑を設置し、個人の業績を讃えるのものである。なお当時の「港屋」の位置はこの碑の西約13m、間口約2間(3.6m)であった。
代表作の『黒船屋』の黒猫を抱く女は京都で同棲していた彦乃という、この店で知り合った日本橋紙問屋のお嬢様がモデルといわれる。しっかりと抱かれた猫は夢二自身だったかも。
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一石橋
現在もそうだが、古地図に現れているように一石橋は日本橋川に架かった古い橋です。このように風格ある親柱が記念碑として保存されている。<
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皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。当時は西河岸町と北鞘町とを結ぶ橋で橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町二幕府金座御用の後藤正三郎、南橋詰近くの呉服町には幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、日本橋地区と神田橋地区を結ぶ橋として重要でした。木橋としては最後になった明治6年(1873)の一石橋は長さ14間幅3間の橋でした。大正11年(1922)に東京市道路局によって鉄筋コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱4基をすえた白亜の橋となったのです。関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。平成9年には大正11年の橋本体は全て撤去されましが、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され当時の姿をしのばせています。平成14年に中央区民文化財に登録されました。
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歌川広重が名所江戸百景において「八ツ見のはし」として描いている。
一石橋は「八つ見橋」「八橋」とも呼ばれた。ここから八つの橋(外濠の常磐橋・呉服橋・鍛冶橋、日本橋川の一石橋・日本橋・江戸橋、道三堀の銭瓶橋・道三橋)が見渡せるといわれていた江戸名所でした。

道三堀と銭瓶橋
古地図でわかるようにここは二つの水路(日本橋川に続く道三堀という堀川と外堀)がクロスする水運の要衝でした。
広重の絵の正面に見える橋は銭瓶橋で、下を流れるのが道三掘。天正18年(1590年)家康は江戸に入府して江戸城築城を開始したが、建設のための物資や篭城の際の食料を搬入するために、最初に着手したのが道三堀の開削でした。当時は、現在の皇居前広場一帯が日比谷入り江と呼ばれる海域で物資を江戸城本丸付近まで運搬してくることは可能だったが、房総方面からの物資、特に行徳の塩を、船にて搬入する場合の効率が悪かった。道三堀開削によって和田倉門橋近くの辰ノ口から外濠、日本橋川に一直線で通船できるようになりました。
後に、神田山(現在の駿河台付近)を崩した土砂などで、日比谷入り江の埋立てが完了すると、この道三掘と現日本橋川こそが、江戸城本丸へと続く唯一の水運路となりました。この運河に沿って、○○河岸とよばれる物流基地が整備され、人も集まり江戸経済発展の動脈となったのです。
この堀沿いに幕府の曲薬頭の今大路道三の屋敷があったので堀名となった。銭瓶橋の名称の由来はいくつも伝えられるがひとつには道三堀と外堀が合流するあたりで銭市が開かれたことにあるといわれる。

道三堀は明治43年(1909)に埋め立てられましたが、和田倉堀から現在の日本ビル辺りまで水路がありました。

一石橋 迷子しらせ石標
東京都指定有形文化財ですが、長いこと四方を金網で保護され、見にくい史跡だったのですが、久しぶりに訪れたところぐるりと観察できるようになっていましたので東西南北から撮影できました。
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江戸時代も後半に入る頃、この辺りから日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。当時は迷子が出た場合、町内が責任をもって保護することになっていた。そこで安政4年(1857)西河岸町の一石橋の橋詰に迷子探しのため告知石碑が建立された。日本橋から一石橋にかけての諸町名主などが世話人となり、迷子保護の立場から町奉行に申請したものである。
銘文は正面「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、
右側面「志(し)らす類(る)方」左側面「たづぬる方」、
裏面「安政四丁巳年二月 御願済建之 西河岸町」
両側面上部に長方形の窪みがあり、左側面の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼る。通行人がそれを見て、心当たりがあれば、その旨を書いた紙を右側面の窪みに張って知らせたという。いわば庶民の告知板である。このほか湯島天神境内の「月下氷人石」や浅草寺境内、」両国橋橋詰など往来の多い場所に同様のものがあった。しかし震災や戦災などで破壊され、現存するのは一石橋のものだけである。


一石橋からは現在ある日本橋川が外堀を形成しているので、ここを遡ることになります。
そうしますとまず「常盤橋」があって、次に「常磐橋」があって、続いて「新常盤橋」と似たような名前の橋に出会います。トキワの漢字ですが、「盤」と「磐」の違いがあります。歴史のある橋は真ん中の「常磐橋」です。

常磐橋 常磐橋見附門
家康入府の際真っ先にかけたといわれる古い橋。大手門から浅草橋門・奥州道に通じる江戸六口の一つ。日銀本店前の通りと常盤橋公園とを結ぶ歩行者専用の石造り2連アーチ橋ですが、東北大震災もあり痛みが激しくなり目下修復工事で通行禁止となっています。
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常磐橋、常磐橋見附門跡(2008年1月24日撮影)
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当時の千代田区の案内には次のような説明が記されていた。
この橋を常磐橋といい三大将軍家光のころまでは大橋とも浅草口橋よばれていました。
しかし、その名前はよくないので改名するよう、町年寄の奈良屋市右衛門に命ぜられました。市右衛門は自宅に寄宿していた浪人に頼んで橋の名前を考えてもらい、常磐という名を献じました。「金葉集」の大夫典侍の歌に
色かへぬ 松によそへて 東路の
常磐のはしにかかる 藤波
とあり、その歌の心を松平の姓とにかけためでたい名です。
なお常盤と常磐の文字のちがいがみられます。(下流に常盤橋上流に新常盤橋があります。)
橋詰に北町奉行所があったこともありました。関東大震災後下流に常盤橋が架けられました。
現在の石橋は枡形に使っていた石を用いて明治10年(1877)に改築した都内随一の貴重な洋式石橋です。橋の銘板には常磐橋とあり、城門の枡形の一部も現存しています。

「金葉集」には「常盤」とあったが皿は割れやすいので「常磐」と変えたといわれている。

日銀前の外堀通りを「龍閑橋交差点」に向かう途中に鉄柵に囲まれた「龍閑橋の遺構」と「「龍閑橋の歴史と由来」の案内図がある。

龍閑川と龍閑橋

画像現在、龍閑川も龍閑橋もない。ただ、その名の交差点がある。
龍閑川は明暦の大火後に築かれた延焼防止堤沿いの空き地を住民の手で開削した物資運搬用の水路でした。日本橋川から隅田川につながるこの運河は日本橋神田地区の発展に大きく寄与しました。日本橋川の起点近くに幕府の殿中接待役・井上龍閑の屋敷があり、橋を龍閑橋、堀の名前そのものも龍閑川と呼ばれるようになったということです。
龍閑川は戦後埋め立てられたがその時に架かっていた橋は大正15年(1926)に作られたもので、日本最初の鉄筋コンクリートトラスの大変珍しい橋ということでその一部がここに保存されています。しかしかなり崩れていて見栄えがしません。

鎌倉河岸
画像 龍閑橋交差点から鎌倉橋交差点まで外堀通りをあるく。外堀通りは鎌倉橋交差点を右折するが、日本橋川に沿って神田橋まで進む。右手一帯は鎌倉河岸と呼ばれていました。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の命により徳川家康は関東240石の領主として江戸城に入りました。当時の城は、室町時代の武将太田道灌(おおたどうかん)が築いた城塞(じょうさい)を、後北条氏(ごほうじょうし)が整備しただけの粗末なものでした。慶長8年(1603年)、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になった家康は、江戸に幕府を開き、町の整備とあわせて以後三代にわたる城の普請(ふしん)に乗り出します。
家康入城の初期からこの河岸は魚、青物、のような生鮮食品をはじめ材木、茅などの物資の集まるところでありました。築城が本格化すると材木石材が相模国(神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸(かまくらがし)」と呼ばれ、それに隣接する町が鎌倉町と名付けられたといいます。現在の内神田二丁目あたりでしょうか。

寿司食いねぇ 酒飲みねぇ、江戸っ子だってね 神田の生まれよ

私たちの年代ならだれもが一度は口にしたことのある有名なセリフです。生粋の江戸っ子は神田生まれで寿司を食う。鎌倉河岸はいわば江戸で最初に出来た繁華街。また家康が江戸に入ってから三河や駿河などの商人をここに住まわせた。三河、駿河の人が「俺たちこそ江戸っ子のはしりよ」と見えを切ったのではないだろうか。

江戸名所図会 『鎌倉町豊島屋酒店白酒を商う図』
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この河岸の豊島屋十右衛門という酒屋で売り出す雛祭りの白酒は有名でした。「酒醤油相休申候」の看板を掲げ、当日は他の商品は販売しなかった。あらかじめ切手を買わせ、左側の扉を入口、右側を出口とし、一方通行に並ばせた。中にはあまりの人で絶倒する客があったと言います。入口の櫓に医者を待機させたとか。この店も戦災までこの河岸にありましたが今も神田の猿楽町に残っています。

首都高都心環状線が覆いかぶさる日本橋川に沿って歩を進めると
神田橋 神田橋御門
慶長7年(1602)頃といわれる「別本慶長絵図」にも橋が描かれ「芝崎口」と名が記されています。近くに拝領屋敷があった土井大炊頭利勝二因んで「大炊殿橋」と呼ばれていました。神田の町へ出入りすることから、「神田口橋」「神田橋」と呼称が変わってきました。
なおこには江戸城守衛のために築かれた内郭門のひとつ神田橋門がありました。橋をわたった大手町側には枡形石垣があり、橋と一体で門を形構成ていました。
神田橋門は寛永6年(1629)に、稲葉丹後守正之によって構築されましたがこの門を通る道筋は、将軍が菩提寺の一つである上野寛永寺へ参詣する御成道にあたりますので、厳重に警備されていました。鉄砲十挺、弓五張、長柄槍十筋、持筒二挺、持弓一組が常備され、外様大名で七万石以上の者、あるいは国持大名の分家筋で三万石以上の者が警備を担当していました。
江戸時代白酒屋で評判だった豊島屋も昭和初期までこの近くにありました。現在の橋は大正14年11月架設、長さ17.3m幅34mです。
平成18年9月 千代田区教育委員会
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内神田一丁目
江戸時代、神田橋のたもとのこの界隈には荷揚げ場がありました。徳川家康は江戸にはいるとすぐに江戸城の築城と町づくりを始め、城を囲む御堀(現・日本橋川)はそのための建築資材などを運ぶ水路として活用されました。古い地図を見ると神田橋付近で「かしふねあり」と記され、そこが水運の拠点だったことがわかります。
神田橋は江戸城外郭門のひとつで、上野寛永寺や日光東照宮への御成道となっていました。このような要所であったためここには明治のころまで建造物はなにもありませんでした。明治初期の地図には交番と電話があるだけです。


続く






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