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zoom RSS 江戸城外堀散策 八重洲口から小石川橋(続)

<<   作成日時 : 2015/02/15 23:56   >>

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画像画像 画像神田橋から日本橋川に沿って飯田橋方面に向かう。現在の錦橋から一ツ橋、雉子橋あたりまでの外堀北側で「二番明地」「三番明地」「四番明地」と右の古地図に記された一帯は護持院ヶ原と呼ばれたところです。
護持院ヶ原
5代将軍綱吉と生母の桂昌院は、僧の隆光に深く帰依し、元禄元年(1688)神田橋御門外に5万坪の土地を賜り、湯島から、知足院を移して護持院と改め、幕府の祈願所に定めた。隆盛を誇ったが、享保2年(1717)火災に類焼し、大塚の護国寺内に入った。そのあとは火除地となり、一番原から四番原までの広大な芝生原となった。護持院の伽藍は、主として二番原にあったといわれるが、江戸名所図会はそれらしくみえる。原の周りは、並木が植えられ、溝が設けられているなど排水や防砂の工夫がうかがえる。四番原の片隅には、茶店らしいものが見える。長い材木を運んでいる人たちがいる。長い大名行列も見える。
神田橋を境に東は過密な町屋と鎌倉河岸であったのに対しこの西側へ足を踏み入れると武家屋敷と護持院ヶ原であり、がらりと雰囲気が変わったようだ。江戸中期から明治にかけては非常に寂しい場所だったようで、語感に死生の境を思わせる雰囲気があるのかな、辻斬り、試し斬り、敵討ちの場所としても有名だった。森鴎外の短編『護持院原の敵討』は実話だそうだ。
小林正樹監督、仲代達也主演の映画、武士道残酷系『切腹』。竹光切腹の凄まじさに度肝を抜かれたが………天空には暗雲が乱れ、荒れ地には草が渦巻く、仲代と丹波哲郎の決闘シーンも忘れられない。あれが護持院ヶ原だった。

現在の町名では千代田区神田錦町一丁目の一部から二丁目・三丁目、一ッ橋二丁目の
一部に及んでいる。

幕府直轄地だった護持院ヶ原は明治政府所管の地となり、政府はここに集中的に大学を設置していった経緯がある。 明治初頭、東京大学のほか東京外国語大学、学習院、一橋大学の発祥の地になっている。

錦橋河岸から一ツ橋河岸へ
鎌倉河岸、錦町河岸、一ツ橋河岸と通り名、交差点名に「河岸」がついている。
当時の水運の隆盛が偲ばれる。

そして一ツ橋河岸交差点から白山通りを北へ
この界隈、今昔の学園ゾーンだね。

学士会館にまつわること
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「東京大学発祥の地」の石碑が建っている。そして隣接の案内板には「我が国の大学発祥地 (東京大学発祥の地)」と誇らしげに説明されている。ややこしい内容だが簡略化すればここのようだ。
文久2年(1862)、護持院ヶ原といわれたこの地に蕃書調所が洋学調所と改名して移転、その後開成所、大学南校、開成学校、東京開成学校と名称を変え、明治10年神田和泉町から本郷元富士町に移転していた 東京医学校が合併し, 東京大学が創立された。
なお明治18年までに本郷へ移転し、明治19年に帝国大学と改称されたものである。

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「新島襄先生生誕の地」という石碑もあった。
京都同志社の創立者であるが、まさかNHK大河ドラマ『八重の桜』ブームに乗ったのではあるまい。
古地図でわかることだが、ここは上野安中藩・板倉伊予守江戸屋敷跡だった。案内板には「この碑は新島襄先生生誕百年を記念して建てられたが神田錦町出身の偉大な先覚者をしのびこの解説を掲示するものである。」と記されている。
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学士会館も欲張りだな。
2003年12月除幕のまだ新しい記念碑だ。
「日本野球発祥の地」でもある。
開成学校で、明治5年(1872)学制施行当初、アメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏が学課の傍ら生徒達に野球を教えたという。新校舎とともに立派な運動場が整備されると、本格的な試合ができるまでに成長、 これが「日本の野球の始まり」と語る所以だとか。

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護持院ヶ原四番明地、今日の風景
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白山通りを隔てた学士会館の向かいは如水会館、学術総合センター、共立女子大学が並ぶがこの一帯もまた護持院ヶ原の第四番明地であった。

如水会館の地には一橋大学の前身である東京商科大学が開設されていた。
一橋大学は明治8年(1875)森有礼が銀座に私塾商法講習所を開設したことに始まるが、これが明治17年(1884)東京商業学校として政府直轄になり、翌年この地にあった東京外国語大学を併合する形で移転してきた。

如水会館と学術センターの境目付近に「東京外国語学校発祥の地」の記念碑がある。
東京外国語大学の起源は 安政元(1857)年に創設された 蕃書調所から護持院ヶ原の開成学校まで遡るから東大と親戚筋に当たるようだ。 直接の前身である東京外国語学校は明治6年(1873)にこの地で開設されている。

お隣にある共立女子大の前身は明治19年(1886)創立の「共立女子職業学校」で、翌年この地に移転してきたものである。

ちょっと離れていますが、「学習院(華族学校)開校の地」という碑が神田錦町1丁目の神田郵便局付近に立っているという。学習院も護持院ヶ原の御一統なんですね。

このように明治政府は戦略的に大学をこの広大な空き地に集中したのです。やがて学生を相手に書店ができ、神保町書店街が形成された。書籍にかかわる出版、印刷、製本業が発展し、また私立大学の集積も進み、教育・文化の発信基地となったのです。
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一ツ橋 一ツ橋見附門

一ツ橋河岸交差点から一ツ橋へ進むと橋向こうに内濠の平川門が見えます。内堀と外堀がこのあたりで鋭く接近していることがわかります。
名前の由来は家康の江戸入府のころには丸太一本の橋があったことだといわれ、寛永6年に陸奥国、出羽国の大名によって一ツ橋門が建築されています。
さて、徳川家には一橋家・田安家・清水家の御三卿(ごさんきょう)と呼ばれる家柄があり、御三家に次ぐ将軍継承権を備えていた。現在の丸紅ビルの敷地一帯には一橋家の屋敷があった。一橋家であるが、一ツ橋見附御門内に八代将軍吉宗の第四子徳川宗尹が居を構えたことからその後一橋家と呼ばれる。おなじく吉宗の子たちから生まれた御三卿の田安家、清水家もそうだ。屋敷そばの見附門(田安門、清水門)の名前を家名にしています。

雉子橋
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橋を渡りながら竹橋方面に目をやれば内堀の石垣を見る。この地点は内堀と外堀が最も近接するポイントです。だから、雉子橋見附門の警備はかなり厳しかった。

  『 雉子橋で けんもほろろに 叱られる 』  (今井卯水)
「けんもほろろ」とは雉の鳴き声をかけている。この川柳は昭和初期に詠まれたもののようだが、江戸の頃からずっと現在まで、警備の厳しい地域であるとか。

名前の由来も面白い。
「御府内備考」には
『見聞集』いわく家康公関東へ御打入以降唐国帝王より日本へ勅使わたる数百人の唐人江戸へ来りたり 是らをもてなし給ふには雉子にまさる好物なしとて諸国より雉子をあつめ給ふ 此流の水上に鳥屋を作り雉子を限なく入置ぬ 其雉子屋のほとりに橋一ツありけりそれを雉子橋と名付たり
と書かれています。中国の使者への接待用でしたか!

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日本橋川沿いを歩いているわけですが、どうやら始点から終点までずうっと高速道路で蓋をされているようです。このあたりは首都高5号線ですからわたしはよく走っているのですが、この下に川が流れているなんて気がつきもしませんでした。実際、地図を見ても高速道路はあるが、川は書いてありませんから。

俎橋(まないたばし)・九段下・元飯田町界隈
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俎橋
神田神保町交差点と靖国神社、通称靖国通りを渡す古くからの橋です。奇妙なその名の由来はよくわからないようで、「大橋」、「魚板橋」という別名もあったとか、近くに御台所町があったからという説もあります。

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九段下・元飯田町(下の名所図会を参照)
この界隈が「九段」と呼ばれるようになったのは幕府が四谷御門の台地より神田方面に下る傾斜地に沿って石垣の段を築き、江戸城に勤務する役人のための御用屋敷をつくったことからです。その石垣が九層にも達したことから、九段という通称が生まれました。当時の九段坂は、牛ヶ淵の崖っぷちを通る細くて寂しい道で、とても勾配がきつい坂でした。
しかし、一本北側を走る中坂(なかざか)は、この界隈で唯一の町屋が並び、御用屋敷に日用品を供給するとても賑やかな通りだったようです。さらにこのあたりは、江戸初期のころより元飯田町の町名が付き、有名な戯作者の曲亭(滝沢)馬琴(中坂下に居を構えていた)が使っていた井戸や幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)などもありました。
川は「飯田川」(日本橋川)、橋は俎橋。

江戸名所図会 『飯田町 九段坂 中坂』
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現在の九段北一丁目界隈は元飯田町と呼ばれた。
江戸に家康が来て間もない頃、このあたりを案内したのが農民の飯田喜兵衛で、ここの名主を命じられ、飯田町と名付けられました。当時17軒程の部落でした。
江戸築城の大工事が進んで九段坂の両側にあった飯田町は現在の築地あたりに移転を命じられ、わずかに牛ヶ淵側に数軒を残すだけとなりました。しかし次第に旗本屋敷と交替しながら町屋を増やし、もちの木坂まで拡がって大変繁昌しました。 ここを元飯田町、築地の方は南飯田町と呼びました。

九段下交差点から飯田橋駅に向かって目白通りを進むとこの界隈にあった史跡について紹介する標柱や案内板が設置されている。
「元飯田町跡」「九段一丁目(の由来)「滝沢馬琴 硯の井戸」「台所町跡」「東京理科大学発祥の地」「甲武鉄道飯田町駅」「飯田町遺跡周辺の歴史」「飯田橋町名由来」


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町名としての「飯田橋」の成立は?
現在は「飯田橋」という町名ですが。天正18年(1590年)、入府まもなく徳川家康が現在の飯田橋周辺を視察した時の案内役・飯田喜兵衛にちなんで「飯田町」と命名したことは先に述べました。ただ、町屋の多かった九段一丁目の元飯田町とちがって飯田橋1丁目~4丁目界隈は武家地となったため、正式な町名をもっていませんでしたが、「飯田町」は通称として使われ続けました。明治5年(1872年)になると、元飯田町や周辺の武家屋敷などが、飯田町一丁目〜六丁目に再編されます。通称として親しまれた「飯田」は、明治維新後にようやく正式な町名となったのです。飯田町の北側にある江戸城外堀に橋が架けられたのは明治14年(1881年)のことです。橋は町の名前にちなんで「飯田橋」と命名されました。そして戦後になって「飯田町」は新たに「飯田橋」と名称を変更したのです。現在町名としての飯田町は存在していません。

水運と陸運で栄えた町でもあった。
甲武鉄道飯田町駅について

明治22年(1889)、新宿-八王子間に甲武鉄道が開業し、同28年(1895)には市街線として延長され、飯田町駅が開業し現在の中央線の始発駅となりました。現在のホテルエドモントとダイワハウス東京ビル一帯がそうです。同37年(1904)我が国で初めて飯田町-中野間で電車が運転、その後甲武鉄道は御茶ノ水方面に延長されました。同39年(1906)、甲武鉄道は国有化され、昭和8年(1933)に飯田町駅は貨物専用駅となりました。貨物駅として新聞用紙専用列車を受入れていましたが、1997年貨物列車の運営が廃止され、駅自体も1999年3月に廃止となっています。
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堀留橋・堀留 江戸城郭都市成立の原点
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神田川流路の変遷と堀留
古神田川といわれる平川は現在の水道橋付近を南へと流れ、日比谷入り江(今の皇居前広場まで食い込んでいた)に流れ込んでいました。15世紀の半ば江戸に城館を築いた太田道灌はこの流れを隅田川に直接流すように改めます。結果、今の日本橋川とほぼ同様の流れになります。これにより江戸湊より江戸城館への物資流通が効率化され江戸発展の基礎となりました。
天下をとる前の家康は江戸入府(1590)と同時に道三堀を開削し、江戸城拡張整備のために江戸湊からの輸送ルートを一層効率化させます。
元和6年(1620)になると、江戸城や埋立地に発展した市街地を水害から守るため、本郷台地を東西に貫く平川放水路(現神田川)が開削され、隅田川にそそぐ神田川下流部の流路が形成されたのです。本郷台地の開削は仙台の伊達家が工事を担当したことから仙台掘の名で知られる。

(上掲 古地図を参照)
さて、この時に元の平川(日本橋川 飯田川)の流れは分岐点から堀留橋あたりまで南へ埋め立てられた。これが「堀留」の誕生です。この結果、分断された日本橋川は流れがない外堀を形成する。
古地図では堀留橋は「蜻(こうろぎ)橋」と記載されている。

やがて明治時代。合流点の三崎橋近くに飯田町駅が作られ、鉄道輸送が始まります。この駅までの水運をはかるためには土手が切り崩され、明治36年日本橋川は再び神田川と出会うようになりました。当時は外濠川と呼ばれましたが昭和39年に「日本橋川」と改称されています。

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現在の橋は関東大震災後の復興橋で大正15年(1926)の竣工です。
架橋工事の責任者傳蔵という人が安全祈願で祀ったというお地蔵さまの祠が橋のたもとにあります。
いたずらをされ傳蔵さんの地蔵は川に流れ、行方不明になったことがある。
そこで町内の人たちは新しい地蔵を造ったところ元の地蔵が発見され、今では2尊が並べて安置されています。



堀留からかつて甲武鉄道飯田橋駅のあったあたり(ホテルエドモンドやダイワハウス東京ビル)を通って小石川橋へ出る。途中に当時の平川の流れをイメージしたという石積がおかれた遊歩道を抜けた。

小石川橋・小石川御門
小石川橋は神田川にかけられている。この橋の正面にあるビルの後ろに小石川後楽園(かつての水戸藩上屋敷)が広がっています。
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小石川見附門
古い写真の門が小石川見附門あるいは小石川御門。この門は水戸様御門とも呼ばれ、備前国岡山藩主の池田光政が築いた。寛政4年(1792)焼失後は渡櫓門を設けていない。この門外は徳川水戸家28万石二代藩主光圀のいた八万坪の上屋敷。門内、甲武鉄道飯田町駅があった見附内の一帯は、讃岐国高松藩の松平家の中・上屋敷。高松藩祖の頼重は水戸藩主頼房の長男で本来ならば水戸藩主であったが、父の頼房が二人の兄(尾張家・紀州家)より先に世継ぎの頼重をもうけたことに遠慮して、弟の光圀に二代目藩主の座を譲ったと伝えられている。明治36年(1903)に埋め立てられていた飯田町部分の水路が再び掘削され、小石川橋が神田川と日本橋川の合流地点となった。




小石川橋から下流を見ると右手に分流・日本橋川の入り口が見える。そこに架かる橋は三崎橋。
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外堀は「の」の字の形をして城郭都市を囲んでいます。そう考えれば始点はここ小石川橋付近の分流口となりますね。ぐるりと右回りしてここに戻り、終点は神田川河口となります。

「江戸城外堀散策 八重洲口から小石川橋 」 終わり 2015年1月

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2015/05/02 10:42

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