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zoom RSS 新・神田川遡行 2 柳橋界隈

<<   作成日時 : 2015/04/01 00:42   >>

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画像柳橋欄干から隅田川を観れば右手に両国橋
柳橋界隈は行政区として台東区、中央区、千代田区が入り組んでいるが、この場所は中央区東日本橋と台東区柳橋の境界にある。「柳橋」の由来についてはいろいろな説があって真説は不明だ。もともとは神田川が大川に流れ込むところにあるので「川口出口之橋」という名称であったが、ほとりに柳が植えられていたことから、いつしか「柳橋」と呼ばれるようになったという説がもっともらしい。元禄11年(1698年)に初めて架橋されたが、現在の橋は関東大震災の後につくられた鋼鉄製のもの。

花街(かがい)のイメージを残す。
欄干の意匠である「花かんざし」は、平成4年に柳橋がローゼ形式でリニューアルされた時に飾り込まれた。
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画像橋の北詰には中央区教育委員会の案内板が設置され、「柳橋」のおおまかな歴史が語られている。
柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。その起源は江戸時代の中ごろで、当時は下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡船で往来していましたが、不便なので元禄10年(1697)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、よく11年に完成しました。
そのころの柳橋辺りは隅田川の船遊び客の船宿が多く、
「柳橋 川へ布団を 放り込み」
と川柳に見られるような賑わいぶりでした。
明治20年(1887)に鋼鉄橋になりその柳橋は大正12年(1923)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部分の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ昭和4年81929)に完成しました。完成から70余年現在区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成3年に整備し、どう11年に区民有形文化財に登録されています。

画像南詰にも銅板を埋め込んだ記念碑がある。
「柳橋」の由来を分析してあるがこれはいかにも役人の制作であり面白くない。
ただ、新橋と客層の違いを記しているところが興味深い。
明治維新後、柳橋は新橋とともに花街として東京を代表するような場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まるところであったようです。

橋と柳と男と女、艶っぽい風景があって正岡子規の俳句も刻まれている。
春の夜や 女見返る 柳橋
贅沢な 人の涼みや 柳橋
このほかにも
お白粉の 風薫るなり 柳橋
子規も花街には相当入れ込んでいた?

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柳橋といえば代表的花街(かがい)だが柳橋が花街として隆盛を誇るのは江戸末期の天保年間であり、それ以前は隅田川の船遊び客、深川や吉原へ通う客を相手とする船宿が繁盛していた。


川柳 「柳橋 川へ布団を 放り込み」
船宿の夕暮時、次から次へ客を搬送する船宿の女将が威勢よく「往ってらっしゃい」、船の舳(へさき)へ手をかけて、グイと川へ突き出す。布団を川へ放り込むとは、舟の中へ投げ込むのである。華やかなせわしない情景が浮かび上がる。
名残がこの繋留された「屋形船」
画像


花街(かがい)としての賑わいは、辰巳芸者で有名な深川花街が天保の改革の風紀の粛清・質素倹約の流れの中で弾圧を受け、深川芸者衆が集まってからのことである。船宿が料亭をかねるようになって芸者街と変容した。明治以降は「柳新二橋」として新橋と共に東京を代表する三業地(料亭・芸者置屋・待合茶屋)となった。
ただし、柳橋芸者のほうが格が高かったという。現在も営業している料亭「亀清楼」には伊藤博文もよく通っていたらしい。

とにかく色気のある街だったが、今は昔、東京オリンピック以降、特に隅田川の護岸改修工事で景観が悪くなり、衰退していった。

画像
現在花街の風情を残すのは橋の北詰にあるこの料亭「亀清楼」のみになっている。

今でも隅田川を行きかう屋形船や花火などの眺望がよく、川向こうの角界との関わりも深く横綱審議会が開かれる会場となっている。Fさんによればその当日は黒塗りの車が列をなすそうだ。

歌川広重 江戸高名会亭尽 「柳橋夜景」
これがかつての「亀清楼」なのだ。

いま橋の上から見てもそっくりの構図ですから当時の情景がリアルに浮かび上がります。
画像

柳橋たもとに見える人気料亭「万八楼」は、安政元年(1854)創業の江戸前料理の老舗「亀清楼」に引き継がれた。柳橋の北に壮麗な万八が、橋の南、神田川の河口には幾艘もの屋形船。万八の二階の座敷からは隅田川に遊ぶ屋形船や、四つ手網にて漁をする船が見下ろされる。橋上を客からお呼びのかかった芸者が料亭へいそいそと。
「狂句会 万八の 二階夏とは うそのよう」
夜の帳が下り、万八の座敷には燭が灯され、室内の様子もうかがえる。
神田川の最下流に架かる柳橋は、隅田川との合流点で飯田濠への船荷や納涼船に吉原通いの猪牙舟の発着場となり水上交通の要所であった。橋の周辺には船宿や待合茶屋に料亭などが軒を連ね、粋な柳橋芸妓が行きかう情緒あふれる花街として栄えていた。明治期には新興の新橋とともに「柳新二橋」と称され、東京六花街を代表していた。

歌川広重 江戸高名会亭尽 「両国柳橋」
「狂句会 おつな業平 河内屋へ 度々通ひ ヒトヒ」

在原業平の河内通いに掛けた狂句
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柳橋の会席料理屋といえば万八楼と河内屋。会席とは本来、茶や俳諧などの集まりをいい、その席で酒とともに出される料理が会席料理である。隅田川をゆきかう白帆の舟。風雅な河内屋の二階で書画会が開かれている。おや、毛氈には水鉢、絵具皿、筆がみえます。書画会は会場に客を集めて、画家や書家はその座敷で揮毫をする。客たちは会席料理や酒を楽しみながら、気に入った書画を争って買い求める。そのほか、宝合会、狂歌会、句会などが開かれ、河内屋はそれらの会場として江戸の文化的役割も果たしていた。
 「白魚の四つ手も春の柳橋、よく釣舟やつなぐ河内屋」 江戸狂歌

春には四つ手網で白魚をとる釣舟も河内屋に寄ったのでしょう。
 




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