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zoom RSS 新・神田川遡行 3 浅草橋界隈

<<   作成日時 : 2015/04/01 20:09   >>

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画像画像浅草橋の成り立ち
江戸幕府開府に伴い江戸の町づくりが進められ、その一環として江戸城防衛のため重要な拠点に見附門を設置した。
特にこの地は、日本橋から奥州街道・日光街道・水戸街道へ、又、江戸の古刹浅草寺(浅草観音)へ向かう重要な道筋にあたっていた。
このため幕府は寛永13年(1636)神田川の南岸、今の中央区側に浅草御門を設け、警護の役人も置いて見附門としたのである。越前国福井藩主の松平忠昌(徳川家康の二男結城秀康の子)が元初音森神社の跡地に築いて警護に当たった。
外濠の最北東を防衛する重要拠点江戸六口(常盤橋門)から奥州街道・日光街道につながる。江戸開府当時は、現在の常盤橋門が、浅草口と呼ばれていたが、この門が構築されてからは、浅草口の名前も、こちらに移った。
浅草にあったわけではないのだが、浅草寺の正面に当たるところからそう呼ばれてきた。
川柳 「浅草寺 見附で聞けば つきあたり」
この門を利用するのは武士や町人で、将軍が出向くのは川上にあったお隣の筋違御門(すじかい)である。

どうして人形屋さんが多いのか?
浅草寺に続く参詣道と神田川の船運という立地で参詣土産の人形問屋ができた。久月・吉徳など老舗が並んでいる。

参考 江戸城三十六見附 (江戸城の濠と門
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江戸城は寛永13年(1636)、3代将軍家光の時代に完成したと言われている。 外堀と内堀を有し、江戸城内に入るには堀に架かる橋を渡る必要があった。 そして街道に通じる橋に渡櫓(わたりやぐら)を持つ門と見張り番所を置いて、人の出入りを監視していた。 この見張り番所が「見附」であり、実際は90近くあったという説もあるが、主な門を数えて36見附と呼んでいる様である。

参考 見附門の一般的構造 (枡形門)
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戦国末期に城郭の防衛力を向上させるため濠、橋、土塁、石垣の配置に工夫を施した枡形と呼ばれる出入口が現れた。四方形の空間を設け、そこに高麗門や渡櫓門を2重に構えることで攻撃側は枡形内に侵入しても2番目の門に阻まれ、守備側からの全面攻撃を受けることになる。多くの枡形は侵入した攻撃側が容易に直進できないよう右折または左折をする構造になっている。
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安藤広重 古今東京名所 浅草見附より柳橋の景
(「安藤広重」が「東京」を書くって変だなと思いましたが二代目、三代目といたんですねぇ。これは二代目の作品)
町人、武士、旅人、商人、このご婦人はなんでしょうか。流れを柳橋方向に見れば、米か酒か、荷を積んだ舟の上り下りがあり、船宿が軒を連ねます。にぎやかな江戸の風景です。
画像





こんな写真も残っています。


今、橋から周囲を眺望し、これらの画像作品と見比べますと、臨場感とでもいうのでしょうか、当時の様子がありありと目に浮かぶような気がします。


明暦の大火・浅草見附の大惨事
猛火に追われた人たちの阿鼻叫喚。まさかそんなことが!と恐るべき人災


浅草門は市中引回しの経路でもある。明暦の大火(明暦3年・1657)の折、小伝馬町牢奉行石出帯刀(たてわき)は一時囚人達を釈放した。が、見附門の番人は脱走囚と間違え門を締め切った。このため一般市民も避難路を絶たれ、ここだけで2万3千人の溺死者、焼死者をだしたという。

画像


参考 明暦の大火
1657年(明暦3)1月18、19日の両日にわたる江戸の大火。振袖火事、丸山火事ともいう。本郷丸山町の本妙寺から出火、おりからの大風のため翌19日にかけて本郷、湯島、駿河台、神田橋、一石橋、八丁堀、霊岸嶋、佃島から深川、牛島新田に延焼した。一方、駿河台から北柳原、京橋、伝馬町、浅草門にも火が及んだ。19日も風はやまず、小石川新鷹匠町から出火、小石川、北神田から江戸城本丸、二の丸、三の丸を延焼した。さらに同日夜麹町五丁目より出火、桜田一帯、西の丸下、京橋、新橋、鉄砲洲、芝に及んだ。
類焼地域は江戸全市に及び焼死者は10万人を超えた。江戸の100万人といわれており、一割が焼死したことになる。この大火を機に江戸の都市計画が進められ、大名、旗本宅地の引き替え、寺社の移転、火除地(ひよけち)、広小路の新設など多方面に及んだ。
振袖火事の名称の由来は、ある若衆を見そめた16歳の娘が、それがもとで病死したので菩提寺の本妙寺に葬った。その娘が着ていた紫縮緬(ちりめん)の振袖の古着を着た2人の娘はいずれも16歳で、しかも3年続けて同じ月日に次々と病死した。命日に集まった三家が不思議な因縁に驚き、問題の振袖を焼き捨てたところ、火がついたまま舞い上がって本妙寺本堂に燃え移り、ついに江戸中を焼き払ったためと伝えられている。しかし史実とはいいがたい。

焼死者10万人のうち浅草見附で亡くなったものが2万3千人であるからいかにすさまじい災害であったのかが想像できます。これまで江戸防備の観点で隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかったのですが、事態を重視した幕府は両国橋を防火・防災の目的で架設したです。




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