日記風雑読書きなぐり

アクセスカウンタ

zoom RSS 江戸城北の丸を歩く 3 北の丸公園を清水門・竹橋へと

<<   作成日時 : 2015/04/05 23:45   >>

ナイス ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

画像武道館まえの大駐車場の奥に戦後20年間、学生寮があったという。その当時、学生の自治寮といえば学生運動の根城だったろうに、そんな左翼のアジトが皇居という対局の懐にあったとは全く知りませんでした。これこそ獅子身中の虫だったはずだが、当時東京の学生であったわたしには各大学にあった学生寮はともかく、ここになんかのセクトが住み着いて騒動があったという記憶はない。

東京学生会館跡地(元近衛兵舎)
1946年(昭和21年)5月から1966年(同41年)までの20年間、現在の北の丸公園「中の池」北西に、東京学生会館という学寮があった。旧代官町で、田安門、武道館を過ぎ、千鳥ヶ淵の手前である。定員620名、都内各大学の男子学生が居住、文部省の外郭団体・財団法人学生援護会(学生アルバイト斡旋事業も遂行)が管轄していた。
戦後、戦地から帰還した学生たちが、旧近衛連隊兵舎に住み着いて「ここを学寮に」と政府に働きかけ、東京学生会館として認められた。以来、学生の完全自治寮として運営、3,000名を超える学生たちが巣立っている。
1965年(昭和40年)5月、「貧困学生救済の段階はおわった」という政府方針で、新宿区下落合に新築移転、存続を希望する学生はここに残ったが、翌年11月20日に、取り壊された。
(近衛連隊兵舎は明治7年建設でレンガ造り二階建てで、現存すれば貴重な文化財である)


気象庁新露場付近の花々
画像

東京の気温などを観測している地点が、2014年12月2日、大手町から北の丸公園へ移転。
東京の観測地点の移転は東京オリンピックの年以来50年ぶりです。
これまでより冬日が増えるとか。

吉田茂銅像と付近の花々
画像


吉田茂像から「雁木坂」上へ。そこで清水門を眺望したあと、雁木坂から門を抜ける。

清水門
画像清水門は渡櫓門の背後から回り込んで往時のままの石段が残る「雁木坂」を上ったところから眺めるのが良い。このアングルで清水濠に面した全貌をとらえることができる。
清水門は中世にこの地にあった清水寺にその名を由来するといわれ、江戸時代には江戸城の一画に取り込まれ、北の丸への出入り口として利用された。門の創建年代ははっきりしないが、外型枡形門として、寛永元年(1624)備中国足守藩主浅野長晟により修築され、明暦の大火で焼失の後、万治元年(1658)8月に修復された。枡形内の濠側に石塁を設けていないのは左塁上から攻撃するためである。
画像

宝暦9年(1759)九代将軍家重の第二子重好が北の丸東一帯に屋敷地を拝領して御三卿の清水家を興した。文久元年(1861)皇女和宮が降嫁のとき清水屋敷に逗留し、清水門を出て本丸に向かわれた。文久3年(1863)の本丸炎上時には将軍家茂と正室和子(静寛院宮)はこの清水家に避難している。昭和36年(1961)6月7日国指定重要文化財に指定される。

ここからいったん清水門より外へ抜け公園外周へと。


画像清水門を出た内堀通りの向かいには平成19年5月にオープンした千代田区役所本庁舎がそびえている。
画像
ここには二度の総理に就任し、明治9年に早稲田大学を創設した大隈重信の邸宅があった。
画像

その昔、江戸時代には清水門前のこの場所に、将軍直属家臣の居住地や蔵・馬場・厩といった江戸城付属の施設が置かれました。
平成16年の遺跡発掘調査では、近世初頭に水田地帯を埋め立てて屋敷を築いたことがわかりました。敷地南半に広がる米蔵二棟が東西に長い建物で、明暦の大火(1657)で焼失したと考えられます。
近代になるとこの地には、明治政府の厩がおかれました。その後、フランス公使館、憲兵練習場などを経て、憲兵隊の宿舎として昭和10年に国営竹平住宅が建てられ、のちに公務員宿舎となり最近まであった。

憲兵司令部竹平下士官宿舎(国営竹平住宅)
ここに3階建て四棟の集合住宅を昭和10年に建てられた下士官宿舎(国営竹平住宅)があった。当時は近代建築で国民に注目された建物であったが、平成13年に解体されて現在は千代田区役所本庁舎地上23階地下3階建が建っている。


大隈重信邸宅
邸宅は雉子橋門前からこの辺りまで構えていた。
写真は明治初期ころだが奥には九段坂上の常燈明台がみえる。
画像
 
大隈重信が「人生125歳説」を深く説いており、早稲田大学、そして早稲田の街ののシンボルにもなっている「大隈講堂」の塔の高さも125尺で設計されている。そして、2007年10月21日に創立125周年を迎えた早稲田大学はこの地に記念碑を建てました。この記念碑の時計は1時25分を指しています。

『鬼平犯科帳』あの長谷川平蔵の役宅もここにあった?
画像
金子半四郎は、清水門外の盗賊改方役宅の前に張り込み、外出する長谷川平蔵を見て後をつけ、平蔵が新銭座の井上医師邸へ入るのを確かめた。(第一巻 暗剣白梅香 P198)
長谷川平蔵の役宅は、『鬼平犯科帳』では清水門外にあります。このことについて、池波正太郎は次のように語る(池波正太郎『江戸古地図散歩』)。
上の切絵図を見るとここは幕府直轄の御用屋敷であり以下の文章を読むと情景はピッタリとはめ込まれる。
左側の蒼い水をたたえた濠と石垣と城門がかもし出す雰囲気は、初夏の夕闇が濃くなりかかるころ、このあたりを歩いていて、おもわず立ちどまり、ためいきがもれるほどに美しい。私の〔鬼平犯科帳〕の主人公で火付盗賊改方長官・長谷川平蔵の役宅を、この清水門外に設定したのも、このあたりの江戸城・内堀の景観が好きだったせいかも知れぬ。
また一つには、鬼の平蔵が盗賊改方に就任した当時の屋敷を、〔武鑑〕によって調べて見ると、むかしは江戸の郊外といってもよかった目白台になっている。
これでは、江戸の特別警察ともいうべき役目をつとめる上に、小説の上で、いろいろと面倒なことが多い。盗賊改方の長官になると、私邸をそのまま〔役宅〕にするのが通例であったが、そうしたわけで、私は彼の役宅を清水門外に移したのである。平蔵の屋敷は、もともと本所にあったのだが、父・宣雄の代に、京都町奉行所に転じ、宣雄の死後、後をついだ平蔵が江戸へもどり、目白台へ屋敷を賜ったものか……
しかし、平蔵亡きのち、後年の長谷川家は本所の屋敷へもどったとも聞いている。


清水濠に沿った内堀通りを竹橋に向かう

竹橋・竹橋御門
画像現在のアーチ型竹橋は、大正15年、帝都復興事業で架設され、平成5年3月、周辺景観との調和や補強を目的に改修を受け、白・黒・桜のみかげ石の橋に、装いを新たにしたもの。一ツ橋一丁目から北の丸公園代官町ランプに入る清水濠に架けられている。この橋名の起こりは、初期に竹で組んだ簡素な橋に由来する。
元和6年(1620)に枡形門が造られ、内郭の城門として備えにあたった。
画像
江戸歴史散歩を楽しむ会、渡辺リーダー。「こんなイメージでありました」
明和5年(1769)落雷によって火災を起こした記録があるのはこの竹橋門だけとのこと。

この門は、外堀に近接しており、天守に近いので警護が特にきびしかったという。

画像竹橋事件
かつて竹橋営所と呼ばれる兵営が置かれていた。明治11年(1878)8月23日夜、前年の西南戦争の論功行賞と減給に不満を抱いて、近衛砲兵第一大隊の兵二百六十余名が叛乱をおこした。大隊長を殺害、大砲を営所から引き出し、清水門前の参議大蔵卿大隈重信の屋敷へ発砲する。一時は鎮圧軍と激戦を展開し、弾丸は大隈邸の先の神田辺まで飛び込み、市中は大混乱となった。










にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村
にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ
にほんブログ村

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
江戸城北の丸を歩く 3 北の丸公園を清水門・竹橋へと 日記風雑読書きなぐり/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる