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zoom RSS 新・神田川遡行 5 和泉橋界隈

<<   作成日時 : 2015/04/07 17:01   >>

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画像古地図を見れば。
浅草御門から筋違御門(すじかい)までは、北岸には船荷の集積地である「河岸」が連なり、いまでも神田佐久間河岸と呼ばれる。南側は土手が築かれていた。土手上には柳の木がずらりと植えられて、柳原土手とか柳原堤と言われていた。
北も南も町家が広がりを見せているが中で「伊勢津藩主・藤堂和泉守高猷(たかゆき)」の大名屋敷が目立っている。
また柳原土手には「柳森稲荷」が見える。

和泉橋

東京三十六景 『柳原 和泉はし』

当時から活気のある通りだったんですね。中央が「柳森神社」、奥に見えるのが「筋違橋・筋違御門」です。
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現在では昭和通りを通す大型の橋である。首都高速一号線が真上を並走している。
「藤堂和泉守の上屋敷」が北にあり、「神田和泉町」の町名も残りこれが橋名の由来といわれている。
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高猷(たかゆき)の祖先にあたる藤堂高虎のほうがよく知られています。浅井長政、豊臣秀吉、徳川家康とつかえた武将で築城技術にも長けていました。慶長期に近江膳所城、伏見城,丹波篠山城、丹波亀山城などの普請を任せられ、また縄張りを担当した江戸城落成の功績で2万石加増されています。大坂夏の陣で,真田幸村の攻撃を受けた家康の本陣が崩れたとき、側面から救援するなど戦でも大きな功績をあげています。家康は臨終の床で彼を高く評価し「国家の大事のときには,一の先手は高虎、二の先手は井伊直孝」と申し置いたと伝えられる。秀忠の娘和子(東福門院)の入内にも奔走、大坂城の縄張りも担当しています。
神田川とは縁がある武将で、神田上水の大洗堰土木工事にも深くかかわっている。

この屋敷跡にお玉が池の種痘所が移転し、幕府医学所となり、東京大学医学部の発祥につながるのですが、現在は三井記念病院になっています。

柳原堤

画像この土手は時代小説では夜鷹が出没する場所で知られています。
江戸名所図会 『柳原堤』 
柳原の封疆(どて)筋違橋より浅草橋へ続く。その間、長さおよそ十町ばかりあり。享保年間、このところの堤にことごとく柳を栽ゑさせらる(寛永十一年の江戸絵図には柳原堤とあり)。堤の外は神田川なり。また、この堤の下に柳森稲荷と称する叢祠あり。ゆゑにこの地を稲荷河岸と呼べり(昔は、神田川の隔てもなく、この川の南北ともに、おしなべて柳原といひし高原なりしとなり)。

上段の図で左奥に見えるのが「浅草橋」、中央が「和泉橋」。下段の左に「柳森神社」、土手には葦簀張りの古着屋や古道具屋が軒を連ねています。

和泉橋の南詰にある千代田区の案内板がこの界隈の今昔をよく教えてくれます。

江戸幕府が開かれた慶長年間(1595〜1615)になると、神田川の工事が行われ川の南側に土手が築かれました。特に、駿河台東端から浅草橋までの土手は、太田道灌が江戸城の鬼門除けに柳を植えた逸話もあり、また8代将軍徳川吉宗の時に再び柳を植えたことから「柳原土手」と呼ばれました。
 この柳原土手に沿った地域は、江戸時代中ごろまでは大名・旗本らが居住する武家地や火除明地や籾蔵の設置場所などでした。その後、次第に商人や職人が住む町地となり、土手のそばには古着などを扱う簡素な露店が設けられ、江戸市中の古着マーケットの一つとなりました。
 明治6年(1873)になると土手は崩されますが、古着を扱う露店は引き続いて営業しました。さらに、明治14年(1881)には、現在の岩本町3丁目10番地及び神田岩本町1番地の一帯に、東京市内の古着商業者たちによって「岩本町古着市場」が開設され、東京の衣類産業の中心地となりました。
 大正12年(1923)9月の関東大震災では、この地区も甚大な被害を受けます。そして、震災復興の区画整理により、それまで営業していた露店は取り払われました。また、第一次世界大戦後になると、庶民の日常衣類として洋服が急速に普及し、需要の中心も古着から洋服に、特に廉価な既製服へと代りました。そのため、この地区でも和服に代わり既製服を扱う店舗が増加し、「洋服」の町へと変貌していきました。
 戦時下には統制経済の影響も受けますが、戦後、特に昭和30年代になると東京の衣料業界も復興を遂げ、また技術革新も進み、この地区は洋服の一大生産地となり、全国のデパート専門店などのウインドーを彩どるファッションの発信地となりました。
  平成11年(1999)3月 千代田区教育委員会


柳森神社
不思議なことにこの神社の境内には重要な史実を知らせるガイドは見当たりませんでした。
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長禄2年(1458年)太田道灌が江戸城の鬼門除として現在の佐久間町一帯に植樹した柳の森に京都の伏見稲荷を勧請し、江戸鎮守として祀ったのがはじまりとされ、万治2年(1659)に神田川堀割の際に現在地に移った。柳の樹も堀の土手に移植され、江戸の名所に。境内の福寿社は「お狸さん」とよばれ、五代将軍綱吉の生母桂昌院が江戸城内に創建したといわれている。境内の13個の力石群が千代田区の有形民俗文化財に指定されている。
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神社なら狛犬か狐なのだが………
なんとまぁ グロテスクな「オタヌキサマ」
しかし勝負運.・立身出世に絶大な霊力がある。
台座には「抜群」とあって、タヌキ→他を抜く………で人気がある。
タヌキなら、たいがいオスで八畳敷きであるが
桂昌院らしいなぁ!妊娠したお狸さんである。

神田ふれあい橋

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神田川に架かる第6番目の橋になります。須田町2丁目から秋葉原駅に向かう。
といっても工事現場の雰囲気で橋らしくありません。
もともと東北・上越両新幹線東京駅乗入れ工事に伴って作られた鉄橋工事用橋が地元の要望で一般的に使われるようになった人道橋です。
そんなわけで神田川下流の橋では最も新しい。

参考 太田道灌
江戸城、神田川には切っても切れないご縁のある方ですから簡単に紹介しときます。
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世界大百科事典 第2版の解説
おおたどうかん【太田道灌】
1432‐86(永享4‐文明18)
室町中期の武将。名は資長。道灌は法名。資清の長男。太田氏は,丹波国桑田郡太田郷の出身といい,資清のときに扇谷上杉氏の家宰を務めた。道灌は家宰職を継ぎ,1457年(長禄1)に江戸城を築いて居城とした。76年(文明8)関東管領山内上杉顕定の家宰長尾景信の子景春が,古河公方足利成氏と結んで顕定にそむくと,主君上杉定正とともに,顕定を助けて景春と戦った。77年武蔵江古田・沼袋原に景春の与党豊島泰経らを破り,78年に武蔵小机・鉢形両城を攻略,80年景春の乱を鎮定した。




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