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zoom RSS 新・神田川遡行 7 万世橋、筋違橋、昌平橋

<<   作成日時 : 2015/05/02 10:30   >>

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画像万世橋はかつて現在の地にはなく、約150m上流に筋違橋門(すじかい)に付属する筋違橋がありました。この筋違橋と昌平橋、万世橋は架橋の経緯がたいへんややこしくなっています。

今はない筋違門とは

寛永13年(1636)加賀百万石の三代藩主・前田利常が築いた。歴代将軍が大手門から神田橋門(江戸六口)を通り上野寛永寺や日光東照宮へ出向く「御成道」にあるので御成門とも呼ばれた。中仙道へは、日本橋からこの門を通過し濠の外に出ると左(西)に折れ、つぎに右(北)に折れて神田明神通り(本郷通り)を西に進む。この二本の道が筋違いで交差することから筋違門と名付けられた。

この筋違門から下谷御成道には落とし噺がある。
人払いをした町中を行く将軍と側用人の問答。 
 将軍「なにゆえに人通りがないのじゃ?」
 用人「御成の日にございますれば」
 将軍「さてもつまらぬものよ」
 用人「恐れ入りましてござります」
 将軍「この次は、御成の日でないときに来ようぞ」

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江戸名所図会 『筋違 八ッ小路』
八ッ小路広場の左下に筋違御門、その上流の右端に昌平橋が架かっている。
画像御成道と中山道を含め8つの道が変則的に交差していることから八ッ小路といわれていた、武家地と町屋との境界にあり、広大な火除け地でもあった。

明治45年(1912)筋違門あたりに甲武鉄道(のちの中央本線)の起点駅の万世橋駅が作られ、八ッ小路は駅前ターミナル広場として賑わいを見せる。

参考 見附門と主な道中

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旧万世橋と昌平橋 写真は解体中の元萬世橋(手前)と昌平橋(左奥)。1906年(明治39年)撮影
画像明治5年(1872)に筋違門が解体されたとき、不要となった枡形石垣を転用して門の跡に東京最初の石橋が架けられ、ときの東京府知事大久保一翁により萬世橋(よろずよばし)と命名された。しかし一般には半円形の二つの通船路の川面に映るさまが眼鏡のようなので、眼鏡橋の愛称で呼ばれていた。(右写真は左上の橋は昌平橋)
明治36年(1903)に元万世橋と改称したが、明治39年(1906)に撤去された。

この現在地に初めて橋が架けられたのは、明治17年(1884)のことで上流の昌平橋が流失したため代用として昌平橋が架けられた。上流の昌平橋が復旧すると、この橋は新万世橋と改称し、明治36年(1903)には鉄橋に改架されて万世橋と再度改称しました。
現在の橋は関東大震災の後の昭和5年(1930)に架け替えられました。
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今はない万世橋駅舎
旧八ッ小路に建っていた。国鉄中央本線の駅で「神田駅」と「御茶ノ水駅」の間に存在していた。駅舎は「東京駅」を設計した辰野金吾の設計で1等、2等の待合室・食堂・バー・会議室を備える豪華な赤レンガ造りの駅は中央本線の終着駅にふさわしい威容であったという。
右写真上部に長く続くレンガ造りの駅舎は今も残っています。
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万世橋
画像神田川に架かる7番目の橋です。橋の南側にある「肉の万世」ビルは昔から変わらないこの界隈の風景です。神田川沿いにレンガ造りの高架橋が見えます。中学のころこの建物には交通博物館があり、よく都電に乗って遊びに来たものです。中央線が走っています。これが万世橋駅の駅舎だったんですね。歴史の重みを感じます。
今は商業施設「マーチエキュート神田万世橋」としてオシャレにうまれ替わりました。旧駅舎のミニチュア(上の写真)がこの施設内に展示されていました。神田川逍遥会メンバーはここで休憩を取りました。


昌平橋
画像万世橋から赤レンガを右手にして昌平橋に向かいました。昌平橋は外堀通りを渡します。南側のJR中央本線とJR総武線でV字型に挟まれてあります。写真に見えるのは中央本線です。

この橋名にも興味深い経緯があったようです。
この地に最初に橋が架設されたのは寛永年間(1624年 - 1645年)と伝えられており、橋の南西にある淡路坂の坂上に一口稲荷社(いもあらいいなりしゃ、現在の太田姫稲荷神社)があったことから「一口橋」や「芋洗橋」(いずれも「いもあらいばし」と読む)と称しました。また『新板江戸大絵図』(寛文五枚図)には「あたらし橋(新し橋)」、元禄初期の江戸図には「相生橋」とも記されています。1691年(元禄4年)に徳川綱吉が孔子廟である湯島聖堂を建設した際、孔子生誕地である魯国の昌平郷にちなんで「昌平坂学問所」としたところから「昌平橋」と命名されています。
明治時代には徳川色を排除するためか、神田川沿いの「相生坂(あいおいざか)」にちなんで、「相生橋(あいおいばし)」と改められた。 「相生坂」は古地図などでは「昌平坂」と記されているが、明治期に「相生坂」に変わったようです。神田川対岸にある「淡路坂(あわじざか)」に相対した坂であることによる命名といわれます。江戸時代内は昌平橋をふくめて下流の橋はたびたび洪水で流されました。
明治32年に現在の位置に橋が架けられ、橋の名前も「昌平橋」に戻された。

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現在の正式名称である「昌平坂」はどこにある。
「相生坂」を上る途中の右側、湯島聖堂の東側の塀沿いにある短い坂です

昌平橋から見た神田川の風景

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歌川広重 名所江戸百景 『昌平橋 聖堂 神田川』

右下にのぞいているのが昌平橋。町人、武家、商人らが昌平坂(相生坂)を上る。坂の上には湯島聖堂。西の空に雁行。雨にけぶる神田川。揚場に係留されている船、上流へ向かう船。大河である。すごい、正に溪谷ですね。
開府当時、江戸城下の皇居前広場から大手町にかけての大名屋敷が頻繁に平川の氾濫に見舞われていた。家康は元和6年(1620)仙台藩の伊達政宗に治水工事を命ずる。平川の三崎橋から神田山を掘り割って隅田川に流れる新水路「神田濠」を掘削させた。本郷台地の固い地盤は過酷な難工事であったという。その残土で日比谷入り江を埋め立てた。この御茶ノ水溪谷は当時は仙台濠と呼ばれていた。ここより隅田川までの流れは江戸城防衛のための外堀を形成している。
なお日本橋川を形成した平川であるが三崎橋から九段堀留までを埋め立てその先の竹橋、馬場先門までは川の地形を生かし内濠として残した。

詳細は江戸城外堀散策 八重洲口から小石川橋(続)・堀留橋・堀留 江戸城郭都市成立の原点を参照



画像昌平橋から見た神田川上流 現在
アングルは同じだと思いますが広重の描いたところとはかなり違います。手前上の鉄骨はJR総武線で、手前から地下鉄丸ノ内線、聖橋、その先のお茶の水橋が、右手には湯島聖堂の森が見えます。相生坂(元昌平坂)の勾配は全く見えません。


画像参考 内堀と外堀
赤線が外堀です。
外堀の基点は堀留で「の」の字型に隅田川へつながる。
現在は黄色線で水路が再生されている。
堀留より呉服橋から東へ永代橋に至る水路が日本橋川。

エピソード 家康と政宗

天下を抑えたとはいえまだまだ油断のならぬ男が独眼竜を名乗る伊達政宗である。家康は時折政宗を碁の相手としていた。
「政宗殿は臥龍と呼ばれておるようじゃが………」
白石を置きながら謎をかけたが、政宗は全く聞こえぬ様子で碁盤を見つめている。
なにやらぶつぶつとつぶやいているようだがと、家康が聞き耳を立てれば
「北の方角が危うい」と聞こえた。
次に石を置けば
「北から攻める」とはっきり聞こえた。
家康はこの時の政宗の言葉から江戸城北の守りを固めるため政宗に命じて濠を作らせたという。仙台藩にとって過重な負担がかかったことであろう。


これから
神田川逍遥会第一日目のラストコースとして東京都水道歴史館を訪ねます。



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