日記風雑読書きなぐり

アクセスカウンタ

zoom RSS 新・神田川遡行 12 飯田橋界隈

<<   作成日時 : 2015/05/18 19:42   >>

面白い ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

画像飯田橋を徹底解剖してみようまずはわかりにくい飯田橋交差点です。
神田川逍遥会の第三日に当たります。
画像
外堀通りと目白通りの交差点であり、かつ大久保通りの起点であり、さらに目白通りと並行して神田川の対岸の外堀通り(一方通行)も合流する「変形五叉路」になっている。
その複雑な交差点の直下が神田川と飯田濠の合流点となっており、その神田川本流側にかかっているのが船河原橋。そして飯田濠は埋めたてられて目に入りにくい。だがそこに架かっているのが飯田橋。さらに外堀通りを目白通りへ一方通行に左折するところに架かる橋があってこれも船河原橋と名付けられている。つまり船河原橋は神田川本流に掛かる本来の橋と、目白通りへの左折専用橋との2つで1セットになっている。


古地図
画像

江戸川(神田川)から南下した流れは船河原橋を抜け直角に東へ折れ仙台濠=神田川となって隅田川へ向かう。一方、飯田濠と牛込濠の間に水路はなく、むしろ水位の高い牛込濠の余水が飯田濠に流れ込む構造にある。したがって隅田川からの水運はこの飯田濠が終着地点であった。市兵衛河岸、船河原橋、牛込揚場町という名の通りこの界隈は物資の集散地として栄えた。
画像
飯田橋の名称の由来はこうです。
飯田橋散歩路標識
江戸時代、千代田区側は外堀の城壁である土居にかこまれて、この目白通りも飯田橋もありませんでした。明治初年(1868)に簡単な木橋がかけられましたが、明治14年(1881)に土居が掘切られて車の通行ができる橋になりました。明治23年(1890)には鉄製の橋にかわり、昭和4年(1929)に現在の橋がかかりました。飯田橋と言っても町の名前ではありません。JR飯田橋駅の新宿側の橋の名前です。その向こう側に船河原橋があります。こちらの橋の方が、飯田橋より古いのかもしれません。現在の飯田橋という町は、以前は飯田町と言われていました。戦後の町名変更で飯田橋となって、飯田町という町名は残っていません

画像

名付け親は徳川家康でした。
千代田区町名由来板:飯田橋(いいだばし
天正(てんしょう)十八年(1590年)、徳川家康(とくがわいえやす)は領主として江戸にやってきました。関東入りしてほどなく、家康は現在の飯田橋(いいだばし)周辺を視察しています。このとき案内役を買って出たのが、飯田喜兵衛(きへえ)という住人でした。喜兵衛の懇切丁寧な案内を、家康はよほど気に入ったのでしょう。視察後、彼を名主(なぬし)に任命し、さらに土地の名前まで、喜兵衛にちなんで飯田町(いいだまち)とするよう命じたのです。その後、この界隈(かいわい)は武家地となったため、正式な町名をもっていませんでしたが、「飯田町」は通称として使われ続けました。
明治五年(1872年)になると、元飯田町や周辺の武家屋敷などが、飯田町一丁目〜六丁目に再編されます。通称として親しまれた「飯田」は、明治維新後にようやく正式な町名となったのでした。そして昭和八年(1933年)、飯田町四丁目の北側、同五丁目と六丁目などが、新たに飯田町二丁目となりました。
飯田町の北側にある江戸城外堀に橋が架けられたのは明治十四年(1881年)のことです。橋は町の名前にちなんで「飯田橋」と命名されました。その後、明治二十三年(1890年)に修築されたのち、同四十一年(1908年)には鉄橋に、昭和四年(1929年)にはコンクリート製の橋に改良され、現在に至っています。
その橋の名が、町名として採用されたのは、昭和四十一年(1966年)のことです。このとき、飯田町二丁目は町中をつらぬく目白通りを境に、東側が飯田橋三丁目、西側は富士見町二丁目の一部を編入して飯田橋四丁目になりました

画像
飯田「町」という駅がありました。
飯田橋散歩路標識
甲武鉄道飯田町駅
明治22年(1889)、新宿-八王子間に甲武鉄道が開業し、同28年(1895)には市街線として延長され、飯田町駅が開業し現在の中央線の始発駅となりました。同37年(1904)我が国で初めて飯田町-中野間で電車が運転され、円板型自動信号機が設置されました。その後甲武鉄道は御茶ノ水方面に延長されました。同39年(1906)、甲武鉄道は国有化され、昭和8年(1933)に飯田町駅は貨物専用駅となりました。この奥のホテルエドモントが旧駅構内で、改札口は小石川側にありました。

古地図にある元小石川見附門内広場と高松藩邸の敷地が活用された。

明治27年(1894)10月9日に甲武鉄道市街線の新宿駅〜牛込駅間が開通した。翌28年4月3日に牛込駅〜飯田町駅が開通し、新宿駅〜飯田町駅間が複線となる。明治39年(1906)日本鉄道国有法が公布され、飯田町〜中野駅間が最初の私鉄買収国電となった。昭和3年(1928)11月5日に飯田町駅と牛込駅の統廃合によって鉄道省の飯田橋駅が新設された。鉄道線の呼び名は、明治41年の鉄道院「院電」、大正9年の鉄道省「省電」、昭和24年日本国有鉄道「国電」、昭和62年の東日本旅客鉄道「JR」と変遷している。
現在でもJRの料金体系は飯田橋駅が始点とされているようだが、なぜ飯田橋か?このような歴史があるからだろう。
画像

かくして水運の町飯田橋は陸運でも発展する素地が築かれました。

飯田濠とはなんであったか?

万治3年(1660)幕府は仙台藩の伊達綱宗に神田川の拡張工事を命じた。江戸城防備のための濠から船運用の水路にと発展させていった。それは江戸城拡張によって市街に人口が増え続け内陸の奥まで物資をすみやかに供給する必要に迫られていたからである。
江戸湊から隅田川を経て、柳橋から神田川に入り飯田濠まで船荷が届くようになった。揚場河岸と呼ばれていたことから「揚場町」の町名が残る。明治45年に神楽坂に隣接する河岸であることから神楽河岸となった。
この写真の堀は飯田濠である。左手に牛込見附門が見える。後ろに一段高くあるのが牛込濠になる。牛込濠の排水が流出堤から飯田濠へ落ち込んでいる。船はここから先には進めない。(明治元年撮影)
画像



歌川 広重 団扇絵 「どんどん」「牛込揚場丁」 
広重作ではあるが、この滝のような流れは船河原橋の「どんどん堤」を誤ってここに描いてしまったものだろう。
左手に牛込見附があり、上の写真のように牛込濠からの水の落ち口は狭い。
画像

牛込見附の向かいが神楽坂。茗荷屋という船宿から赤い扇子を持った若旦那が芸者二人と船に乗り込む。船宿の奉公人たちが酒、肴を抱え、乗り込むのを待っている。手前の右側一帯は揚場町。神楽河岸の揚場で荷揚げされた物資を運ぶ荷役を軽子と呼んだことで軽子坂と名付けられた坂が神楽坂の手前に並んである。明治後期からではあるがこの神楽河岸があったことで神楽坂が花街として発展していった。


牛込濠と牛込駅
牛込濠(昭和3年)
画像

牛込濠の左に牛込駅舎と小さな橋が見える。改札口から飯田濠に注ぐ排水路に架かる小さな橋を渡って、停車中の電車の位置にあったホームから乗車していた。左上に神楽坂通りの牛込橋(跨線橋)と牛込見附跡の石垣、右上の洋館が昭和39年大手町に移転した逓信博物館である。

昭和4年(1929)逸見亨の牛込濠を描いた「牛込見附」は、飯田橋駅西口から市谷方向の新見附を望む。
画像



少し足を延ばして外堀通りを牛込橋まで歩き、牛込見附門跡を見てきました。
画像
牛込見附門
 牛込門は寛永13年(1636)阿波国徳島藩主の蜂須賀忠英が築いた。田安御門(江戸六口)から上州道に通じる牛込口とも呼ばれた。かれている。
牛込門から神楽坂通りの先には大老酒井忠勝の矢来屋敷や旗本組屋敷に寺町が密集している。明治5年(1872)の城門廃止で発見された阿波乃國と刻まれた見附を築いた証の石が西口交番横に置かれ、もう一つの大石は日比谷公園の心字池に移設され亀石と名付けられている。外濠の門で唯一門の両側の石垣が現存している貴重な史跡だ。
画像







日吉丸、 矢矧橋にて小六の子分になる
月岡芳年 『美談武者八景 矢矧の落雁』
矢矧橋における蜂須賀小六(描画上は蓮葉皃六将勝)と日吉丸(少年期の豊臣秀吉)の出会いを描いた大判浮世絵武者絵
画像

牛込橋
画像

飯田橋駅西口の改札口を出ると目の前が、上掲明治元年撮影の写真に見える牛込橋の上である。飯田濠上の牛込濠との高低差から現在でも牛込濠から暗渠になった飯田濠の跡へ水を流す堤や排水溝が設けられている。
画像
画像飯田濠の埋め立て
昭和24年(1949)飯田濠の埋め立てによる再開発計画が立てられた。昭和52年(1977)その計画に反対する地元住民の「飯田濠を守る会」や「水辺をなくす再開発に異議あり」の声も上がったが、強制執行から和解へと進み、やがてこの飯田濠は埋め立てられ、昭和59年(1984)9月に20階建ての飯田橋セントラルプラザが竣工した。なお揚場らしく、強硬に反対したのは材木取扱業者だったと聞きます。

セントラルプラザ前の親水公園に「牛込揚場跡碑」がある。目立たない石碑なのだが、広重の絵が刻まれ、この地域の繁盛とともに埋め立て事業の弁明めいたところがあって興味深い。
江戸時代には海からここまで船が上ってきた。全国各地から運ばれてきた米、味噌、醤油、酒、材木などがこの岸で荷揚げされたので、この辺は揚場と呼ばれた。
昭和47年(1972)に都の市街地再開発事業として、ビル建設が決定され飯田濠は埋め立てられることになったが、濠を保存してほしいという都民の強い要望から、ビルの西側に飯田壕の一部を復元すると共に、以前水面があったことにちなんで約230メートルのせせらぎを造った。
小濠の水は、このせせらぎの地下水路を通って昔のとおり神田川に注いでいる。
昭和59年(1984)3月 東京都
(広重作品の説明)
牛込御門外北の方 船河原橋より南の方 町武の第宅軒を並べ東南のかたより御堀にて材木および米味噌はさら也酒醤油始め諸色を載せてここに集へる。船丘をなせり故に揚場の名は負けらく、これより四谷赤坂辺まで運送す因ってこの所の繁華山ノ手第一とせり。


画像
船河原橋

「船河原橋(ふなかわらばし)」は、神田川14番目の橋だ。
「外堀通り(そとぼりどおり)」が神田川を渡る橋。
架橋年代は定かではないが、仙台堀(せんだいぼり)が開かれて間もないころであろうと言われている。
ところでここの歩道は人が渡れないので用心。

画像
江戸時代、飯田町と江戸川にかかる船河原橋のすぐ下には堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていた。これから船河原橋は「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」などと呼ばれた。
江戸時代の江戸川には紫色を帯びた大きな鯉が多くいて美味いと評判だったので、幕府御用として漁獲禁断の御留川、いわゆる禁猟区であった。しかし、「どんどん」の堰から落ちた魚は漁猟を許され、釣り人で賑わっていた。昭和40年(1965)河川法の改正でこの川の全域を神田川と命名した。
船河原橋から江戸川の上流に向かって撮影されたもので、どんどんの堰の後方に竜慶橋(隆慶橋)がかすかに見える。家光の祐筆であった大川龍慶による架橋で龍慶橋が正しい。

私たちが雨の日に歩道橋からふと川面を見るとなんと大きな緋鯉真鯉が群れをなしていた。本降りでシャッターをきれなかったがその後何度見ても鯉の姿にはお目にかかれないのだ。幻の御留鯉だったのか?あれは捕獲が許されていたのだ。惜しいシャッターチャンスを逃がしたものだ。

飯田橋(左)と船河原橋(右) 電車は目白通りと外堀通りを走る路面電車 手前は飯田町駅前
画像


飯田橋を渡る路面電車

画像






にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
面白い
ガッツ(がんばれ!)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
新・神田川遡行 12 飯田橋界隈 日記風雑読書きなぐり/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる