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zoom RSS 江戸城北の丸を歩く 4 代官町通りから千鳥ヶ淵沿いを

<<   作成日時 : 2015/06/11 12:28   >>

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維新後、明治政府によって近衛師団の兵営地が設置された。このような地図で北の丸を鳥瞰すれば、中心に近衛歩兵の兵営があり、そこを取り巻くように営倉、病室、炊事場、体操場、火薬庫、練兵場が設けられ、東端には砲兵の兵営がせり出しています。完全に近衛連隊の特別な軍事施設だったんですね。
皇居と皇族の護衛、帝都の防衛が主な任務で、毎日2百名の近衛兵が乾門から皇居へ入り、24時間交代で二重橋などの歩哨についた。帽子の徽章も陸軍が星だけなのに対し、近衛は星に抱き桜という特別なものだった。

竹橋から北の丸公園を南側(代官町通り)から西側(千鳥ヶ淵沿い)に沿って歩いてみる。


東京国立近代美術館の前の千代田区の町名由来板に「西の丸公園の詳しい記述があった。
江戸時代のはじめ、このあたりは関東総奉行内藤清成(ないとうきよなり)らの屋敷となり、代官町(だいかんちょう)と呼ばれるようになりました。その後、三代将軍家光(いえみつ)の弟、駿河府中(するがふちゅう)藩主徳川忠長(とくがわただなが)や春日局(かすがのつぼね)、家光の次男松平長松(まつだいらちょうまつ)(のちの甲斐甲府(かいこうふ)藩主徳川綱重(つなしげ))などの屋敷となりました。さらに享保(きょうほう)十六年(1731年)に八代将軍吉宗(よしむね)の次男徳川宗武(むねたけ)(御三卿田安(ごさんきょうたやす)家)、宝暦(ほうれき)八年(1758年)には九代将軍家重(いえしげ)の次男徳川重好(しげよし)(御三卿清水家)がそれぞれ上屋敷(かみやしき)を与えられています。安政(あんせい)三年(1856年)には、この絵図にも見られるように田安家・清水家上屋敷のほかに御蔵地(おくらち)、植溜御用地(うえだめごようち)、馬場などがありました。
明治維新後、田安家・清水家の上屋敷は一時御用邸(ごようてい)となり、その後は近衛歩兵営(このえほへいえい)用地となりました。近衛歩兵営では明治十一年(1878年)、日本初の兵士反乱事件「竹橋事件(たけばしじけん)」が起きています。
明治八年(1875年)、ここは東代官町(ひがしだいかんちょう)、西代官町(にしだいかんちょう)となりました。そして明治十二年(1879年)、二つの町が合併して新たに代官町と改称しました。
第二次世界大戦後は、森林公園として整備が進められ、昭和四十二年(1967年)、住居表示の実施により北の丸公園(きたのまるこうえん)と改められました。名称はかつての江戸城北の丸にあたることに由来します。
公園は、昭和天皇の還暦を記念して昭和四十四年(1969年)に開園し、園内には日本武道舘や科学技術館、国立公文書館、国立近代美術館などがあります。また石垣には国指定天然記念物のヒカリゴケ生育地もあり、都心のオアシスとして親しまれています。

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国立公文書館
平成27年3月6日から開催していた「JFK−その生涯と遺産」展を見ることができました。

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北白川宮能久親王銅像

変わった経歴の持ち主です。徳川慶喜の助命嘆願や蜂起した彰義隊に擁立されるなど幕府寄りの立場をとり、ついには奥羽列藩同盟の盟主に担ぎ出されています。謹慎・蟄居を繰り返した異端児です。日清戦争後の1895年(明治28)、近衛師団長(当時陸軍中将)として、ドイツより割譲された台湾の征討任務で海を渡りますが、現地で病を得て亡くなりました。
48歳と若くしてなくなったが、貫禄の乗馬ぶりです。

近衛師団司令部 (東京国立近代美術館・工芸館
このゴシック風レンガ造りの建造物はいわくありそうなものと前から眺めていたのですが、ようやく理解できました。現在は東京国立近代美術館の工芸館ですが、昭和20年までは近衛師団司令部だったのです。昭和47年重要文化財に指定されています。
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脚本・橋本忍、監督・岡本喜八による傑作の映画、ポツダム宣言受諾の玉音レコード原盤を巡っての争奪劇、森師団長が殺害されたのがここだったのです。三船敏郎が阿南陸相を演じました、

日本のいちばん長い日
DVDコマーシャルより引用
1945年、昭和20年8月14日。ポツダム宣言受諾を目の前に、日本国は揺れていた。
天皇の「聖断」に従い、和平への努力を続ける首相鈴木貫太郎をはじめとする人々と、徹底抗戦を主張して蹶起せんとした青年将校、敗戦を受け入れられぬ軍部上層──。
玉音放送を敢行せんとする政府関係者に対し、陸軍の一部軍人は近衛連隊を率いて皇居に乱入した。
8月14日正午から15日の正午のポツダム宣言迄の24時間を軸に追った凄絶なるセミドキュメントドラマ!


日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
終戦反対事件
1945年(昭和20)8月14日の深夜から翌日早暁にかけて、陸軍の中堅幹部が近衛師団の一部兵力を使って宮城に侵入し、昭和天皇の終戦の詔書の放送を阻止して、抗戦を継続させようと企てた事件。宮城事件とも、八・一五事件ともいわれる。陸軍省軍務局の課員(当時、参謀本部第四部の参謀を兼任)のなかには、東京帝国大学の国史学の教授平泉澄(ひらいずみきよし)の教えを受けた熱烈な皇国史観の保持者が多く、ポツダム宣言受諾の動きを国体護持のうえから危険なものだとみなしていた。彼らは8月12、13日ごろから、阿南惟幾(あなみこれちか)陸相を擁してクーデターを計画したが、陸相の賛成を得られなかったので、近衛師団の一部の参謀と謀って、宮城の占領を計画し、15日朝2時、森赳(たけし)近衛師団長を殺害して、にせの師団命令を出し、近衛師団の一部を出動させて宮城に侵入した。しかし出動部隊がにせ命令であるのを察知したのと、15日未明田中静壹(せいいち)東部軍司令官が鎮圧に駆けつけたため、クーデターは失敗した。また一部の右翼や軍人が鈴木貫太郎首相、木戸幸一(こういち)内大臣などの私邸を襲撃したが、いずれも目的を達しなかった。[藤原 彰]


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千鳥ヶ淵とは?  
江戸開府後の江戸城拡張の際、局沢川と呼ばれていた川を半蔵門と田安門の土橋で塞き止めて造られたお堀である。飲料用水源の貯水池であった。代官町通りを境に接する半蔵濠とはかつて繋がっていたが、1900年(明治33年)に道路建設のため埋め立てられ別々のお堀となった。皇居外苑の濠ではこの二つの水面が最も高い位置にある。半蔵濠には千鳥ヶ淵公園が隣接している。千鳥ヶ淵には千鳥ヶ淵緑道が隣接し両者桜の名所となっている、。

「千鳥の形をしているから千鳥ヶ淵という」とよく説明されるのだが、現在の千鳥ヶ淵の形からはどうみても鳥の姿には見えない。ところが渡辺リーダーの説明図版をみるとなるほど水鳥が大きく翼を広げて飛んでいる。

今回は3月11日なので梅が残っている程度だが、花見時には千鳥ヶ淵公園や千鳥ヶ淵緑道は人ごみで押すな押すなのすしづめになる。ところが、北の丸公園内のこの散策道は実は人知れず観桜の絶好のスポットなのだそうだ。
(右下三枚目の写真は3月31日に同じ場所で撮影したもの)
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さて千鳥ヶ淵の水質だがもともと家康入府の直後に小河川をせき止めて飲料水を得るために建設され、その後、17 世紀中頃には玉川上水から濠へ水が供給されるようになったおであるからら、江戸時代には千鳥ヶ淵は、良好な水質を維持していたと推測される。ところが昭和40 年の淀橋浄水場の廃止に伴い玉川上水からの補給水が途絶え、それ以降の給水は、もっぱら雨水に頼る状況となった。さらに千鳥ヶ淵の上に首都高速道路が開通し昭和40年、首都高速道路の排水が放水されることになった。加えて首都高速4 号線千代田トンネル地下水、路面排水を千鳥ヶ淵、半蔵濠・桜田濠へ放流。このようなことから、皇居外苑の濠の中で最も汚染が進んでいる。
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北の丸公園を右回りに一周しました。

高燈篭(常燈明台)
田安門から靖国神社へ渡る歩道橋の脇にこの常夜灯があります。なかなか立派な建造物ですね。

千代田区の説明によれば
靖国神社正面の常夜灯として明治4年(1871)に建設されました。靖国神社(当時は東京招魂社)に祭られた霊のために建てられたといわれています。
正式には高燈篭といいますが、常燈明台ともいわれています。
当時、九段坂の上からは、遠く筑波山や房州の山々まで見渡すことができ、品川沖を行きかう船にとっては大変良い目印として灯台の役目も果たしました。
当初は靖国通りをはさんで反対側に建てられていましたが、道路の改修に伴い昭和5年(1930)に現在地に移転しました。

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外堀通りを渡って北へ向かう
硯友社跡
この地に明治時代の文学結社、硯友社の社屋がありました。
硯友社は、明治18年(1885)2月、尾崎紅葉・山田美妙・石橋思案らで結成され、回覧雑誌「我楽多文庫」を発刊、明治21年(1888)市販されるにおよび明治20年代の文壇に多くの影響を与えました。
同人には、川上眉山、巌谷小波・広津柳浪らも参加しています。
明治30年代以後衰退し、紅葉の死によって消滅しました。
    平成4年(1992)3月 千代田区教育委員会


フィリピン大使館公邸

この界隈はフランス系のミッションスクール・暁星学園が立地していたからであろうか戦火を免れた場所だ。
このモダンな建物は昭和10年に建てられた鉄筋コンクリート造2階建てで、白い外壁、アーチ型の開口部が特徴。44年(19年)にフィリピンが購入した大使館公邸とのことだが、まだ戦時中であったその時によく買えたものだと不思議に思う………。
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元はといえば安田財閥創始者・安田善次郎の孫にあたる安田岩次郎氏が建てたもの。姪に当たるオノ・ヨーコさんもここは思い出の地だという。1966年に日本武道館でビートルズの公演があった。その際オノ・ヨーコさんは夫君ジョン・レノン氏と二人で武道館からここまで歩いたとされるが本当だろうか。
フィリピン政府には公邸を取り壊しビル21階を建設し、最上階に公邸を移す計画があったようだが、あの噂話はどうなったかな。

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二合半坂
フィリピン大使館公邸を冬青木坂(もちのきざか)とこの坂で挟む。それにしてもミステリアスな名づけである。
【標識(千代田区設置)の説明】
この坂は二合半坂と呼ばれています。名前の由来は諸説あります。
『再校江戸砂子』という史料には、日光山が半分見えるためと書かれています。なぜ「日光山が半分見える」と『二合半』になるのでしょう。このことについて、『新撰東京名所図会』という史料での考えを紹介しましょう。
 富士山は麓から頂上までを十分割して一合・二合・・・と数えますが、西側に見える富士山と比べると日光山はその半分の高さ(五合)に見え、その日光山がこの坂からは半分しか見えないので五合の半分で二合半になるという考えです。
この他に、あまりに急な坂であるため一合の酒を飲んでも二合半飲んだ時のように酔ってしまうからという説もあります。





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