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zoom RSS 新・神田川遡行 13 船河原橋から新白鳥橋

<<   作成日時 : 2015/06/20 11:26   >>

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船河原橋は神田川14番目の橋だ。5月24日、第三回の神田川逍遥会は暑い日だった。
飯田橋交差点陸橋から眺める船河原橋はいつになっても複雑だなぁ。人が歩けないという珍妙な歩道が見える。

今日はここから江戸川橋までを散策するが、川の流れは淀んで濁り、悪臭もある。首都高が流れに覆いかぶさっているので暗い。道路にはところどころでごみの山が積まれ、ラーメンの屋台が置き去りにされ、路上生活者の昼寝姿も見られた。コースを通して最も環境の悪いゾーンに当たる。
だが、戦前は、大曲付近の桜並木、屋形船での船遊びなど情緒にあふれ、街並みも江戸の色合いがのこっていたはずだ。

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船河原橋を上流から見る
ところで神田川には分水路と呼ばれる流路がある。お茶の水分水路は水道橋下流に吞口があり昌平橋下流北口が吐口であるがすでに確認したところだ。あと2系統の水道橋分水路、江戸川橋分水路、高田馬場分水路がある。
ここは南下した流れが鋭角的に東に折れる場所である。
水道橋2号分水路の呑口が開いている。

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神田川は戦後、高度成長時代を経て、下流部が商業地域として、上流部は住宅地として発展し、流域の市街化が急速に進んだ。このため、水害の危険性が高まり、治水上の必要性から、ほぼ全域が直立護岸となった。加えて、この分水路設備の拡張である。
大雨などで増水したときに備えて川幅を拡張することは、もう物理的に不可能。その代わりに作られたバイパスが分水路である。地下を通すことで、「暗渠」として誕生した。流れが急角度で変化するような洪水の起こりやすい場所で敷設されている。


江戸川橋分水路の吐口もここにある。
(画像は飯田橋交差点陸橋上から撮影)
開口部は水道橋2号分水路吞口の対岸にあたる。

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画像はクリックを繰り返して大きくしてご覧ください

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隆慶橋
古地図によれば「隆慶橋」は「竜慶橋」と記されている。古地図にあるからには古くから存在した橋である。三代将軍家光の祐筆であった大川龍慶による架橋だそうだ。だから昔は竜慶橋と書かれたのだろう。
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塗装工事中とのことだが、本気で取り組んでいるか!去年からこの風景は変わっていないのじゃないかな。空間がビニールと板で覆われたトンネルだ。そして昼に見る置き去りの屋台ほど無様なものはない。誰もこの景観をなんとかしようなど思いもよらない異次元ゾーンだな。
隆慶橋そのものも車道と歩道を無理にくっつけたようなグロテスクなシロモノで人も車も使いにくそうである。隣の新隆慶橋が立派だから余計にそう思える。
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今は昔に思いをはせれば芝居「極付幡随院長兵衛の実話と関連があった場所なのだが………。

1600年代中ごろ、戦乱の世も終わって、本来の仕事が無くなり、世をすねた青年旗本たちは焦躁感をつのらせていた。武士の権威をカサに江戸市中の町人たちに乱暴狼藉をはたらく徒党=旗本奴(はたもとやっこ)が現れた。一方、町人身分のヤクザ集団=町奴(まちやっこ)=も同時期に登場。そろいの羽織を着て肩で風を切り、博打、ケンカ、男伊達を競い合いあって、両者はことあるごとに反目しあった。
町奴の親分で、弱きを助け強きをくじく、男の中の男一匹!歌舞伎や講談の人気キャラクターとなったのが、浅草花川戸に本拠をおく親分・幡随院長兵衛(ばんずいいん・ちょうべえ)だ。ところが旗本奴のボスであるワルの水野十郎左衛門とトラブルを起こし、数日後に屋敷に招かれて湯殿てだまし討ちにあって36歳の生涯を終えた。
このとき、幡随院長兵衛の死体が流されたところが隆慶橋であったという話があるから、こんな隆慶橋でもぞんざいにあつかってはならないだろう。
なお殺害現場=水野十郎左衛門の屋敷は牛込御門内だったそうな。

ついでながら、水野十郎左衛門は幕府のかぶきもの取り締まり強化によって切腹させられている。(1664年)


それにしても どうしてこんなに薄汚いところなのだ?

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画像新隆慶橋

神田川では最も新しい橋。6車線ある非常に幅が広い橋で、橋の両側には歩道が整備されている。こうなると先ほどの隆慶橋はますますみすぼらしい。
神田川流域では立派な橋に思えるが………。上を見上げれば首都高の板張り天井が相変わらずです。


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白鳥橋
北へ向かった流れが、大きなカーブを描いてほぼ西に方向を変える。この場所一帯を「大曲」(おおまがり)と呼ぶ。首都高速とその先にそびえる凸版印刷「小石川ビル」の壁面が神田川に沿ってカーブを描いている。 カーブの内側は学術書出版大手「 朝倉書店」の本社ビル。
橋の向こうに次の橋、新白鳥橋がのぞいている。
白鳥橋という名前は、江戸時代の初期にはこのあたりに白鳥池(しらとりいけ)という沼沢地があったことによる。
白鳥池は、明暦の大火の後に埋め立てられて、周囲には町家や武家屋敷がつくられた。
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水道橋1号分水路吞口


直角に近いカーブだから、大雨などで川の水位が上昇した時には、昔は、この辺りで洪水が頻繁に起こっていたということである。それだけに分水路が必要とされた。

さてこの水道橋1号分水路はながい。その吐口であるが、水道橋下流川北岸にある、神田川分水路最大の本流との疏通口。これはお茶の水分水路吞口と隣接しています。

分水路というのは見えないだけにややこしい。


新白鳥橋


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画像白鳥橋の混雑緩和目的で作られた江戸川橋方面から後楽園方面に抜ける一方通行・車道専用の鉄橋。………「車道専用」と聞いていたが、よくよく見ると歩道もついていました。ただしこの歩道はぼんやり歩いていると見逃してしまう。

川沿いの道路は人が歩くのに行き止まりがあったりしては便利なようにはつけられていません。だから全部の橋を渡ろうと思うとまごまごしてしまいます。

白鳥橋、新白鳥橋、次の中之橋の南側は新宿区「新小川町」である。昔の白鳥池の一部が明暦3(1657)年の大火の後に埋めてられて町家となったところで、神田小川町に住んでいた武士を中心に移住したことに由来する町名である。





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