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zoom RSS 新・神田川遡行 16  駒塚橋界隈 (水神社・芭蕉庵・永青文庫・新江戸川公園)

<<   作成日時 : 2015/07/30 16:46   >>

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画像胸突き坂
駒塚橋より目白台に向かって急坂が伸びている。「胸突き坂」というから苦しくなりそうだ。胸突き坂の左手には水神社、右手に関口芭蕉庵、坂を上り切ったあたりに永青文庫と文化史跡が連なり、さらに奥には講談社野間文庫、村上春樹が一時入っていたことで知られる男子学生寮の和敬塾を見ることができる。

メンバーのFさんはなぜか和敬塾に関心があり、別途行ってみたいとおっしゃる。

画像水神神社(すいじんじんじゃ
これぞ大洗堰の守護神である。
鳥居の両脇にそびえる銀杏の古木が印象的だ。
水神社(すいじんじゃ)
祭神は速秋津彦命・速秋津姫命・応神天皇
創建の年代は明らかではない。
『江戸砂子』には、「上水開けてより関口水門の守護神なり」とある。
わが国最古の神田上水は、徳川家康の命により大久保主水が開いた。井の頭池からの流れを、目白台下の現大滝橋のあたりに、堰(大洗堰)を築き、水位をあげて上水を神田、日本橋方面に通じた。
伝えによれば水神が八幡宮社司の夢枕に立ち、「我水伯(水神)なり、我をこの地に祀らば堰の守護神となり、村民を始め江戸の町ことごとく安泰なり」と告げたのでここに水神を祭ったという。
上水の恩恵にあずかった神田、日本橋方面の人たちの参詣が多かったといわれる。また、このあたりの田園地帯で清らかな神田上水が流れ、前には早稲田田んぼが広がり、後ろには目白台の椿山を控え、西には富士の姿も美しく眺められて、江戸時代は行楽の地であった。
郷土愛をはぐくむ文化財
文京区教育委員会 
昭和58年3月

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神木銀杏
風雪にさらされ節くれだった根瘤は悪霊を踏み砕く巨大神の足のようだ。

森の中に佇む社もこじんまりとだが落ち着きがある。(click!)

“ありがたさ、たまさか井戸で鮎を汲み”という川柳がございまして、江戸市民は水への感謝の気持ちが深かったんですね。もちろんこの神様の存在を知っていた。神田、日本橋から参詣の人が絶えなかったそうだが、ところが今は気の毒なくらい寂れてしまいその面影はなくなってしまった。お賽銭箱はなく、野良猫の住処になっている。


関口芭蕉庵
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胸突き坂の石段を4~5段上ったところの右手にこの入口がある。
深川芭蕉庵ではない、関口芭蕉庵である。神田川改修工事に芭蕉がかかわったということだ。
この「史跡 関口芭蕉庵」は講談社のオーナー一族の野間家が中心になって管理されている。入場は無料だし、管理人さんの説明をお聞きするのよい。神田川に興味を持たれる方には必見のスポットですね。

文京区の案内板ではこう説明されている。
この地は、江戸前期の俳人松尾芭蕉が延宝5年(1677)から延宝8年(1680)まで神田川改修工事に参画し「龍隠庵(りゅうげあん)」と呼ばれる庵に住んだと伝えられている。後に世人は「関口芭蕉庵」と呼んだ。
享保11年(17269、芭蕉の33回忌に当たり、芭蕉の木造を祀る芭蕉堂が建てられた。その後、去来・其角・嵐雪・丈草の像も堂に安置された。
芭蕉は早稲田田んぼを琵琶湖に見立て、その風光を愛したといわれている。そこで、寛延3年(1750)宗瑞・馬光らの俳人が芭蕉の真筆「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓とした。塚は芭蕉堂の近くにある。
芭蕉庵の建物は昭和13年(1938)3月、近火で類焼したが、同年8月に再建された。しかし昭和20年(1915)5月の戦災で焼失した。
敷地内には、芭蕉堂・さみだれ塚・朱楽菅江歌碑・伊藤松宇の句碑などがあり、往時をしのぶことができる。
文京区教育委員会


江戸名所図会 「芭蕉庵 五月雨塚 駒留橋 八幡宮 水神宮」 
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神田上水の南に広がる早稲田田圃。駒留橋(現在の駒塚橋)がありその北側の小高い丘にi今と比べてもあまり変わらない芭蕉庵の造作がうかがえる。

この絵に加えて先に紹介した広重の名所江戸百景せき口上水端はせを庵椿やま」を見てみよう。(click!)
芭蕉庵の庭に「夜寒の松蹟」と「さみだれの松蹟」があるが、樹齢700年といわれたその巨木は広重の描いた美しい姿の松だったのではないだろうか。

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庭の中央には細長い回遊池があって瓢箪池と呼ばれている。
池の畔に笹に囲まれて「芭蕉翁の句碑」がある。
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昭和48年、280回忌を期して建てられたもので、よく知られた「古池や蛙とび込む水の音」なのだが、
芭蕉庵文庫保存の真筆自画賛の軸より模刻した貴重な碑である。

ここには小冊子「史蹟 関口芭蕉庵案内記」が販売されており、左下の自画賛軸の画像はそこで紹介されていたものである。
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瓢箪池の奥、階段を上ったところ、「さみだれの松」があったあたりに、いわゆるさみだれ塚はある。
碑には「芭蕉翁之墓 夕可庵馬光書」と刻まれる。

松尾芭蕉は1694年(元禄7年)10月12日、大坂の花屋仁左衛門の貸座敷屋敷で、51歳の生涯を閉じた。その遺骸は遺言通り、大津の「義仲寺」に葬るため、門人たちの手により、淀川をさかのぼり、義仲寺へ運ばれ、 木曽義仲の墓の隣りに埋葬されている。
彼を慕う門人や後世芭蕉の顕彰に努めた人たちにより全国各地に墓が建てられているようだ。

小冊子「史蹟 関口芭蕉庵案内記」によれば
裏面に「祖翁瀬田の橋の吟詠を以てこれを建てさみだれ塚と称す 寛延三年八月十二日夕可庵門生園露什酒芬路」と刻してある。蓋し翁はさみだれの松を背景とする、一面の青々した早稲田田圃を琵琶湖に見立て、その風光を愛したので、後の俳人たちが遺吟「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の真筆を遺骨代わりにここに埋めて墓を築いたもので、芭蕉翁関東七墓の一つである。
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早稲田田圃から見た芭蕉庵前景 明治時代
小冊子「史蹟 関口芭蕉庵案内記」より

芭蕉庵の入り口に休憩所がある。

神田川逍遥会のメンバーと芭蕉忍者説を語り合っていると管理人の方がニコニコしながら聞いておられた。
芭蕉忍者説
芭蕉の故郷である伊賀国の殿様は、藤堂和泉守高虎(1556〜1630)。藤堂氏というのは近江国の藤堂村の出身だが、豊臣秀吉(1536〜1598)にも家康にも認められ、 1608年に伊予国から伊賀国に転封された。 芭蕉の母方の桃地(百地)氏というのは、その折に伊予から伊賀へ従って来た者のようで、芭蕉の最初の号である「桃青」は、桃地氏の「桃」を採ったものと思われる。伊賀忍者の始祖・百地三太夫の血を引くものか?

管理人さんが言うには「むしろ 奥の細道に連れ添った曾良が幕府の隠密だったとの説がある」と。

話は変わるがこのメンバーのM男さんだが、戦国武将銘々伝にはめっぽう詳しい。それだけではないようだが………。彼によれば藤堂高虎が伊予から伊賀へ転封された史実など常識の範囲らしい。

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深川に芭蕉記念館がある。
2006年に訪れたところだ(click!)
江東区は、我が国の文学史上偉大な業績を留めた松尾芭蕉ゆかりの地です。
芭蕉は、延宝8年(1680)それまでの宗匠生活を捨てて江戸日本橋から深川の草庵に移り住みました。そして、この庵を拠点に新しい俳諧活動を展開し、多くの名句や『おくのほそ道』などの紀行文を残しています。この草庵は、門人から贈られた芭蕉の株が生い茂ったところから「芭蕉庵」と呼ばれ、芭蕉没後、武家屋敷内に取り込まれて保存されましたが、幕末から明治にかけて消失しました。
大正6年(1917)の大津波の後、常盤一丁目から「芭蕉遺愛の石の蛙」(伝)が出土し、同10年に東京府は、この地を「芭蕉翁古池の跡」と指定しました。江東区は、このゆかりの地に、松尾芭蕉の業績を顕彰するため、昭和56年(1981)4月19日に芭蕉記念館を、平成7年(1995)4月6日に隅田川と小名木川に隣接する地に芭蕉記念館分館を開館しました。当館は、真鍋儀十翁等が寄贈された芭蕉及び俳文学関係の資料を展示するとともに、文学活動の場を提供しています。

確かに芭蕉といえば江戸川より深川が似合いだが、記念館よりここ関口芭蕉庵のほうがはるかに風情がありますね。

永青文庫
画像胸突き坂を上り切った所。中世室町幕府 の管領家の一門であり肥後熊本54万国の大名(熊本城といえば加藤清正のほうが名が売れているが………)であった細川家 の下屋敷後だ。細川家がここに入ったのは幕末で、当時は3千坪であったが、その後少しずつ拡張し、新江戸川公園・永青文庫を含む神田上水から目白通りに及ぶ約3万8千坪の広大な敷地であった。永青文庫は、南北朝時代から現在に至る歴代細川家25代の間に蒐集された細川家の歴史資料や文化財、及び24代護立氏が蒐集した近代日本画、中国の考古品、陶磁器などを以って昭和25年に設立された。 昭和47年には登録博物館 となり一般に展示公開されている。
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元総理大臣の細川護熙さんは初代細川藤孝から18代目に当たる。晩年に不名誉な評判をたてている人物ですね。三代目の忠興は明智光秀の娘(ガラシャ夫人として有名になった美女)をめとったことでよく知っている。代々文武両道で優れたといわれているが、室町幕府の管領であるから公家風のイメージが強い。これだけの文化財を集めたのだから、高等遊民の典型かもしれない。
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神田川とは無関係なので展示物をゆっくりと鑑賞する気にはなれなかったが、Tさんは起請文(たくさんありました)とその熊野牛王宝印に見入っておりました。またWさん、M女さんは古文書を勉強しているだけに解読に忙しげでありました。
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この家に伝来する歴史資料、美術品などの文化財がこんなにあります.
「永青文庫」は藤孝にゆかりの深い建仁寺塔頭永源庵の「永」と藤孝の居城青龍寺の「青」をとって名付けられたのだそうだ。画像

永青文庫らしからぬイベントなのだが、他の展示場からは断られたという、9月19日から12月23日まで春画展が開催される。かなりのハードコアがあるようだ。
人が愛を交わす様子を描き出した春画は、古くから愛好されてきました。「枕絵」や「笑い絵」などといい、平安時代や鎌倉時代には「偃息図(おそくず)」と呼ばれ、「小柴垣草紙(こしばがきぞうし)」や「稚児之草紙(ちごのそうし)」など、鎌倉時代に制作された作例が現存しています。印刷技術の盛んでなかった時代には上層の人々だけが享受してきましたが、江戸時代に入ると版画の普及によって庶民にまで広まっていきました。そして印刷技術によらず絵師が自らの手で描き出す、従来の「肉筆」の作品にも、浮世絵版画で活躍した多くの絵師が腕を振るうようになったのです。
本展は日本初の春画展として、海外は大英博物館およびデンマークから、また、日本の美術館や個人コレクションから「春画の名品」を集めます。鈴木春信の清楚、月岡雪鼎の妖艶、鳥居清長の秀麗、喜多川歌麿の精緻、葛飾北斎の豊潤など、浮世絵の大家たちによる作品のほか、徳川将軍や大名家の絵画を担った狩野派の作品など、大名から庶民にまで広く愛された春画を楽しんでいただければと思います。本展が、春画の魅力を現代の皆様に広く知っていただく機会となれば、望外の喜びです。


ぜひ目の保養をしたいですね。


目白台台地に構える永青文庫の裏庭から神田川へ向かって落ち込む傾斜面がある。細川家下屋敷はこの高低の起伏を活かして景観に富んだ庭園を造った。

これが現在の『新江戸川公園」である。
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江戸時代ここは武家地であった。幕末には細川越中守の下屋敷、抱え屋敷であったが、明治15年(1882)からは細川家の本邸となった。その後昭和43年(1959)、都立公園として開園したが、昭和50年4月、文京区に移管され、文京区立新江戸川公園となった。
庭園はもとの細川邸をそのまま公園にしたもので、規模は比較的小さいが、素朴さの中に江戸情緒が漂う回遊式泉水庭園である。目白台の地形の変化を巧みに利用し、名園と呼ぶにふさわしい景観を作り出している。また、春・夏に咲く花々、秋の紅葉、そして雪景色は見事である。「松聲閣」と呼ぶ園内の建物は細川家の学問所であった、現在では区民の集会所として利用されている。
文京区教育委員会

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新江戸川公園の様々な顔(click!)

新江戸川公園 春の顔(click!)






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