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zoom RSS 新・神田川遡行 18 水稲荷神社とその周辺

<<   作成日時 : 2015/08/19 18:22   >>

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画像まず、古今の周辺の地図を見ておきましょう。古地図の中心部には小さく「三島社」とあるがこの場所に現在の水稲荷神社がある。水稲荷神社は、『江戸名所図会』に描かれた当時、「高田稲荷」とよばれていました。右下の小高い丘の上にあるのが、水稲荷神社(高田稲荷)で、ここは現在の早稲田大学9号館裏のあたりです。その右にある山は、高田富士で、水稲荷神社(高田稲荷)とともに、昭和38年(1963)に西早稲田3丁目の現在地に移転しました。
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水稲荷神社に隣接する「甘泉園」は御三卿の一つ清水家の屋敷の跡地です。
堀部安兵衛の決闘で有名な「高田馬場」はこの両地図で確認できます。
「高田馬場」の右のマークは昭和の流行歌「神田川」の舞台である銭湯です。
古地図左上の「面影橋」は「姿見橋」と同一とされています。(やはり二つはなかったのでしょう。)


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水稲荷神社

仲之橋から新目白通りをわたり交差点から坂道を上ると西早稲田キャンパス19号校舎前に大きな提灯とコンクリートの鳥居がある。ここから水稲荷神社の参道である。広がる水と緑に囲まれた空間。その中に鎮座する水稲荷神社は外の喧噪から離れた穏やかな空気に包まれています。
そしてこの境内には見逃せない史跡が数多くあります。

今日は早稲田大学の学生さんが参拝に見えていました。礼儀正しい好青年たちでしたね。
水稲荷神社の境内には、かつて早稲田大学構内にあった高木神社や、大隈重信の信奉が厚かったという北野神社など、早稲田大学に縁のある神社もある。普段でもお参りをする早大生や合格祈願に訪れる早大受験生も少なくないようです。

水稲荷神社
現在の早稲田大学9号館裏のあたりは古から冨塚古墳と呼ばれ、「戸塚」という地名の発祥となったという。941年(天慶4年) 、藤原秀郷(平将門を討ったことでも知られる鎮守府将軍俵藤太秀郷)がこの冨塚の地に稲荷大神を勧請し、「冨塚稲荷」と命名したのがこの社の起源です。
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1702年(元禄15年) 、 神木の椋の根元より霊水が湧きだし、眼病に利くとして評判となり、火難退散の神託が下ったことから、「水稲荷神社」と改名した。さらに1788年(天明8年)には「江戸の水稲荷」を名乗る翁が現れ、京都御所の大火に功績を認められたため「関東稲荷総領職」を任ぜられました。
そのため水稲荷神社は眼病のほか水商売および消防の神様として有名になりました。

神田川と直接の関係はないようだね。

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1963年(昭和38年)に早稲田大学の拡張にあたり、土地交換、清水徳川家の下屋敷であった甘泉園の地に遷座した。境内にある「高田富士」(冨塚富士ともいわれる)、冨塚古墳も移築されている。

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冨塚古墳
拝殿裏の小高い丘ですが、薄暗く、これだけ狐に囲まれている社は正直、気味が悪いですね。
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北野神社
(家光の祐筆・大橋隆慶が奉祀、牛込天神町からご遷座。天神様即ち菅原道真公をお祀りしてあります。早稲田大学創設者大隈重信は日々拝礼し特に信奉厚かった社

小さくて目立たないが、早大受験生の参拝は絶えない………とか。

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三島神社とある
源頼朝がこの地での挙兵に際し勧請したともいわれるが定かではない。
社の説明には簡潔に
徳川御三卿の一つ清水家の守護神
とだけあって、
清水家とのかかわりには触れていない。

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太田道灌駒繋松
思わず苦笑いですね。
タイトルの説明は全くなしで、
山吹の里はこの辺一帯を云う名です
と面影橋にある伝説を意識した婉曲なる表現はおかしい。

実は全く知らなかった神社でしたが、このように江戸名所図会でも紹介されているし、鬼平犯科帳の舞台にもなっている。江戸市民の人気は高かったようです。
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江戸名所図会 高田稲荷 毘沙門堂 富士山 神泉 守宮池(いもりのいけ) 宝泉寺

江戸名所図会は解説文の切り口がいい。
高田稲荷(水稲荷神社) 
戸塚村の産神と称す。ゆゑに戸塚稲荷とも呼べり。本地仏は聖観世音は南部徳一大師の作なり。当社の権興はもっとも久遠なりしに、文亀元年(1501)上杉治部小輔入道朝良とす。
元禄十五年(1702)四月、霊告ありて榎の椌より霊泉涌出す。眼疾を患ふる者、この霊水をもって洗ふに、はた
して奇験あり。よって土俗、当社をさして水稲荷とも称せり。

毘沙門堂
同じ境内小高き丘の上にあり。本尊毘沙門天王は慈覚大師の作にして、武蔵守藤原秀郷の念持仏といへり。守宮の池も同じ山下にあり。水中イモリ多し。ゆゑにこの名あり。寛永の頃、台命(家光)によってゐもりが池とよぶとぞ。

高田富士山 
稲荷の宮の後ろにあり。巌石を畳んでその容を模擬す。安永九年(1780)に至り成就せしとなり。この地に住める富士山の大先達藤四郎といへる者、これを企てたりといふ。毎歳六月十五日より同十八日まで、山を開きて参詣ゆるす。山下に浅間の宮を勧請してあり。


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江戸名所図会を見ながら池波正太郎『鬼平犯科帳』の一節を読むと迫力がグーンと増します
鬼平犯科帳10巻 「追跡」P115
水稲荷というのは高田稲荷明神社のことで、穴八幡(高田八幡宮)と道を隔てた北側にある。広大な境内は地形と木立をあまりくずさず、清冽な水が滾々と湧き出し、これが眼病に効く霊水だそうな。杉木立が鬱蒼としている裏門の外はいちめんの雑木林と田圃で、彼方は井伊掃部頭・下屋敷だ。それに面して(わら屋根の)民家が一つ。
絵の左上には「裏門」とあって、わら葺き屋根が見えるではないか!
古地図で確認すれば確かに彼方には井伊家の下屋敷がありました。

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ところで江戸名所図会にあった「高田富士山」とはなんだ?
どこにあるんだと一生懸命探すが見当たらない。境内にお参りに来ていた人に聞いても知らないという。
遊んでいた子供に「富士山はどこにあるの?」と尋ねたら
道案内してくれた。
木立の奥にあるらしいのだが、入口は閉鎖され見えませんでした。
画像木々の間にそれらしいものが見えた。
「高田富士」都内にいくつもある富士塚とは別格のようだ。どうやら江戸じゅうに富士講を流行らせた方が築いた富士塚でいつでも登山できるものではないのだ。

ところでわたしは都内のいくつかの富士塚を見て回ったことがある。
ブログ東京富士塚巡り(click!)
比較したらこの高田富士は富士塚の中でナンバーワンの歴史遺産かもしれない。
富士山を神として崇める富士山信仰は室町時代中期に始まり江戸時代中期から末期にかけてブームになった。しかし、一般庶民にはそう簡単に富士山にいけません。身近な場所地元に富士山のミニチュアを作り誰でもが富士山参拝をできるように築いたのが富士塚です。
富士塚は東京に130ヶ所(23区内100、都下30)あるそうです。

水稲荷神社のホ-ムページには
境内にある「高田富士」(戸塚富士あるいは富塚富士とも)は早稲田大学拡張工事の際に、同大学の構内にあった江戸中最古の富士塚を移築したものである。
むかし植木職人藤四郎は仲間の富士講の人たちとしろい行衣で身じたくをしてふじ山頂より運んだ岩土で富士塚(約十メートル)を築き、大評判となりました。
そのご、それを真似て江戸中のあちこちに富士塚が造られました。
本物の富士山に登れない人に達が大勢来てそれはそれは大変な賑わいでした。このミニチュワ富士に登って山頂の鐘を「カーン、カーン、カン、カン」とたたきますと今年一年の幸せと安全がかないます。この宮は水に関する商売、防火関係者の信心をあつめ流鏑馬、入学祈願で有名です。
と説明されています。 江戸名所図会の解説によれば1779年6月(安永9年となっているが安永8年)、藤四郎という人物がここに模擬富士山をつくり富士山頂上にある浅間神社を勧請した。で、山開きの4日間だけ登山できたと。文字通り有り難いお話だ。

現在では高田富士祭とよばれ今年は7月19日と20日の二日間登山が解禁される。

これはぜひとも立ち会ってみたいものだと7月19日にはTさんと参加してきましたので別項で報告します。


大きい地図で見る



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