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zoom RSS 新・神田川遡行 20 「真説 高田馬場」 水稲荷神社にあるもう一つの史跡

<<   作成日時 : 2015/08/22 19:50   >>

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水稲荷神社の境内入口、石段を上った左側に巨大な石碑が威圧するようにそびえている。
水稲荷神社のホームページによると
堀部安兵衛助太刀の場所の碑です。
元禄七年(1694)二月十一日のこと、安兵衛は市ヶ谷から喜久井町を通り、馬場下の小倉屋で、枡酒をあおると高田馬場に駆けつけ、叔父の菅野六郎左衛門の果し合いに助太刀し相手方三人を切り倒した。
この果し合いの場所は、現在の新宿区西早稲田3丁目12−4(西北診療所)のあたりといわれています。
この決闘で助太刀をした安兵衛の活躍が江戸中で評判になり、後に講談や芝居の題材となりました。 安兵衛は、浅野内匠頭切腹後、終始あだ討ち推進派として活躍。元禄十五年吉良邸に討ち入ったその功績が称えられ、明治四十三年(1910)にこの石碑が旧高田馬場、現在の茶屋町通りの一隅に建立されました。その後、昭和四十六年に現在の水稲荷神社の現在の場所に移されました。
それにしてもこれだけ大きな碑にびっしりと文章が書かれている。英雄豪傑堀部安兵衛を講釈師の台本のように劇的語り口で顕彰しているのだ。

文中、肝心なところはここです。
「安兵衛もその1人となった(赤穂浅野の家臣となって討ち入りで活躍)。ああ、一族の難に功を加えることを一族にこの人有りといい、一国に変事がありてこれを復讐することを一国にこの人有りという。今安兵衛の一身にこの2つの大きな難がふりかかったことからすれば、忠孝、節義をまっとうする豪傑の士といわないはずはないではないか。」

この碑を建てた人たちが只者ではない。
堀部武庸加功遺跡碑(ほりべたけつねかこういせきのひ)
と刻まれている。
篆額は、明治の終わりから大正の初めにかけて、二度にわたって総理大臣を務めた西園寺公望(1849〜1940)。
清書したのは、当時の最高の書家の1人、日下部鳴鶴(1838〜1922、本名は東作)。
文章は東京信夫(1835〜1910、号は恕軒じょけん)。漢学者の彼は赤穂浪士の話を好み、その方面の著述もある。

とにかくこの記念碑は図体、文体とも圧倒的な迫力がある。

  ところで「高田馬場」といえばふつうはこの堀部安兵衛決闘場しか思い浮かばないだろうが、それだけではなく江戸の観光名所のひとつでありました

江戸名所図会 「高田馬場
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追ひ廻しと称して二筋あり。竪は東西へ六町に、横の幅は南北へ三十間余あり。昔右大将頼朝卿、隅田川よりこの地に至り、軍の勢揃へありし旧跡なりしといへり。
慶長年間、越後少将(忠輝卿「松平忠輝、徳川家康の息」)の御母堂高田の君「お茶阿の方」遊望の儲けとして開かせらるるところの芝生なりしが、寛永十二年(1638)に至り、いまのごとく馬場を築かせたまひ、弓馬調練のところとなさしめらるるとなり。
(頼朝が挙兵したとはこの文書によるものか)

歌川広重 名所江戸百景 「高田乃馬場」
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さすが広重!この大胆な構図。

歌川広重 江戸名勝図会 「高田馬場」
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高田馬場の北に風除けの松並木が植えられ、鬼子母神の参拝客や馬場見物客の休憩所となる茶屋8軒が並び茶屋町通りと呼ばれた。

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これだけの名所であるから池波正太郎も抜け目なく「鬼平犯科帳」の舞台にしてある。
上掲した江戸名所図会高田馬場を拡大して眺めながら読むと面白い。
鬼平犯科帳 10巻  P105
戸塚村の台地にある高田馬場は、寛永十三年に、三代将軍が馬場をきずき、弓馬調練のところとしたものだ。むかし、源頼朝の軍が勢ぞろいした場所ともいわれているし、戦国の時代に、かの武田信玄が小田原城を攻めようとした時、そのあたりに陣を構えた、などともいわれている、
馬場は、中央の堤を境にして、二筋にわかれ、馬場の北側の松並木はまことに美しい。
近くの穴八幡や、鬼子母神の祭礼には流鏑馬の式や、さまざまの行事があり、見物が群集するし、平常は幕臣たちが馬術の稽古に来て、これを見物しながら茶店でやすむこともできる。
ま、こうしたわけで、高田の馬場は江戸郊外の一名所になっている。
馬場の中には、わら屋根の茶店が二軒ほどあって、あたりの景色もなかなかによろしい。

池波正太郎はここに描かれた風景ばかりでなく解説をも参考にしていることがうかがえる。
時代小説の練達だから冴えるワザであって、誰でもこのマネをできるものじゃあない。

実は池波本人がエッセーでこの点を書き記しています。
私のように時代小説を書いているものには、名所図会中の一枚の絵から、一篇の小説の発想を得ることもある。見るといえば、この[江戸名所図会]ほど頻繁に見る書物は他にない。
見るたびに新しい発見をするし、毎日の仕事のためにも、一日に一度は、ひらいて見る。


閑話休題




 「高田馬場」の淵源をたどれば

江戸初期の慶長年間に越後高田藩主松平忠輝(家康の第六子)の生母である茶阿局の住む高田御殿が牛込供養塚村(喜久井町)の感通寺にあった。この茶阿局が後に「高田の君」と呼ばれた。さらに高田御殿の近隣、」神田上水(神田川)を望める景勝地の高台に遊覧別荘地を設けていた。

高田馬場開設記念式典
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三代将軍家光は、寛永13年(1636)1月、穴八幡宮の北西にある高田御殿別荘地に馬場を造るよう命じた。いわゆる高田馬場で8月2日に完成した。8月19日に家光は落成した新馬場の馬揃いに臨み、諸士の馬芸を観る。この馬場は追廻二筋で長さ東西に6町(約654m)、幅南北に30余間(約55m)旗本の弓馬術調練場で、歴代将軍の流鏑馬奉納馬場として用いられた。

高田馬場駅誕生秘話
「たかたのばば」か「たかだのばば」かの選択が決定的問題であったとは!
この話は「大江戸歴史散歩を楽しむ会」のリーダー、渡辺功一さんのブログにあったものです。
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明治18年(1885)3月、日本鉄道品川線(品川〜赤羽)が開通した。その時、明治15年(1882)早稲田に開校した東京専門学校の最寄駅は大久保・目白駅であった。明治28年3月に甲武鉄道(新宿〜牛込)が開通すると、牛込駅(飯田橋駅)も最寄駅となったが3駅とも距離があった。明治35年(1902)早稲田大学に改称と共に学生と住民が増えていった。

明治41年に発足した鉄道院の初代総裁後藤新平に大久保〜目白駅の中間駅の設置を早稲田の学生と住民が請願した。明治43年(1910)9月15日、山手線の複々線化を機会に高田馬場駅は開設した。地元の駅名「上戸塚駅」や「諏訪森駅」を申請したが却下された。鉄道院は1キロ以上も離れた縁もゆかりもない江戸時代の史跡「高田馬場」を駅名に採用した。日本国は第一次世界大戦にむかう戦況にあり、高田馬場の助太刀と忠臣蔵の討ち入りで有名な堀部安兵衛で戦意を鼓舞させようとする意図もあった。なにせ、かの石碑が同じころに建立されている。ネズミではないがチュウコウチュウコとアジっているあの石碑だ。

鉄道院は考えた。いや官僚らしくこじつけて反対派を恫喝したのだ。高田馬場のあった「下戸塚」の反対住民に対して、史跡の「たかたのばば」と呼称せずに「たかだのばば」と濁って使えば問題はないだろうと収束決着させた。さらに、昭和50年(1975)6月駅周辺の地名も高田馬場と改称し、馬場のあった下戸塚は西早稲田と改称したため、その歴史を町の人達の記憶から消し去ってしまった。地名は忘れがちな文化財といわれる由縁である。因みに三菱東京UFJ銀行とみずほ銀行は「たかたのばば」支店と呼び、三井住友銀行と郵便局は「たかだのばば」支店と濁って呼んでいる。なお、りそな銀行は高田馬場に支店がない。落語の演目「高田馬場」は「たかたのばば」と呼び、江戸っ子は濁ってはならないのだ


最後に高田馬場に絡むもう一つの珍説
銭湯 安兵衛湯
貴方はもう忘れたかしら
赤い手ぬぐい マフラーにして
二人で行った 横丁の風呂屋
一緒に出ようねって言ったのに
いつも私が待たされた 

洗い髪が芯まで冷えて
小さな石鹸 カタカタ鳴った
貴方は私のからだを抱いて
冷たいねって言ったのよ
若かったあの頃何も恐くなかった
ただ貴方のやさしさが 恐かった
大ヒットした「神田川」に登場する「横町の風呂屋」が「事跡高田馬場」の中にありました。
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1973年(昭和48年)秋、作詞:喜多条忠(まこと)、作曲:南こうせつ、歌:南こうせつとかぐや姫
作詞者、喜多条忠は1947年生まれというから全共闘世代かな。その喜多条と南こうせつが意気投合、LP用の作詞を引き受け、早稲田の学生だったころの自分の同棲体験をモチーフに作詞したのがこの「神田川」なのだそうだ。
ところで風呂屋はすでに廃業してしまいました。
地図で確認(Click!)

ふたりの同棲の場所はもう少し川上でしょうね。


大きい地図で見る



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