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zoom RSS 新・神田川遡行22 高田馬場から新堀橋

<<   作成日時 : 2015/09/30 11:18   >>

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画像第5回神田川逍遥会は7月19日13時に高田馬場駅前に集合し、41番清水橋から59番淀橋までゆるりと神田川遡上を楽しんできました。予定では6日間で全コース踏破のはずが、まだ中間地点にまで到達していないという余裕しゃくしゃくの散策です。きょうはようやく一つの区切りである高田馬場を越えるんです。
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清水川橋
神高橋から見ることができた清水川橋へ行く道は途切れているので、 高田馬場駅の目白側にあるJRと西武新宿線のガードレールをくぐり、歓楽街「さかえ通り」を通り抜けることになります。
さかえ通りの途中を右手路地へ入る。
古く錆びついた感じで今までの橋とはがらりと雰囲気が変わりました。

橋名の由来ですが、明治の地図を見るとここ南一帯を「清水川」と呼んでいたようです。

現代地図と古地図でこのあたりを示しておきます。(画像はすべてクリックで拡大できます)

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現在の新目白通りの北あたりまで、早稲田田圃に連なる水田地帯が広がる低地で、その向こうには目白台から続く下落合の高台を望む風景だった。(下図 「落合惣図」参照)
神田川に架かる橋は江戸期に田島橋しかありません。
藤森稲荷神社は東山藤稲荷神社・おとめ山公園と記されています。
現在の街の様子からその当時の面影はないが、かすかに橋から北へ向かって新目白通りを越えると、高台に続く斜面の雑木林が残る「おとめ山公園」の緑が残されている。
おとめ山公園の「おとめ」は「乙女」ではありません。「御留」です。このあたりの高台が徳川将軍家の狩猟場となっていて、一般市民の立ち入りが禁止されていたことで「御留山(おとめやま)」だったのです。
氷川社、薬王院も現存しています。
「落合」の名にふさわしい二つの流れに挟まれた土地の風景が想像できます。
落合水再生センターは泰雲寺跡なのかな?

田島橋
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田島橋は高田馬場盛り場の奥にあってさほど知られていない橋ですが、存外に古い、江戸時代には名の知れた橋です。なにせ、江戸名所図会に一つならず紹介されているのですから。今の橋は交通の要衝でもないのに図体が大きく上から見ると鼓型という風変わりデザイン使われている。新目白通りをここに渡す計画がとん挫した跡だという話を聞いたことがある。

清水橋から見ると上流にある東京富士大学の校舎間連絡通路と重なって二重橋に見える、いつも思うのだが、こういう連絡通路って簡単に許可されるものなのだろうか?(Clicck!)
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東京富士大学
神田川逍遥会のメンバーの誰もこの大学の存在を知らなかったようだ。
守衛さんに設立の時期等を尋ねています。






江戸名所図会 「落合惣図」
上の二つの地図と重ねるように見るとかなり立体的に当時の風景が立ち上がってきます。
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江戸名所図会 「落合蛍 
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神田上水が大きくうねり、中央に田島橋があります。右手には氷川社が。
田島橋から落合にかけての神田川沿いは蛍狩りの名所でした。夜のふけるのを忘れて、老若男女、武家や町人がそぞろ歩きで涼を求め、葉のついた竹竿や団扇で蛍を追っている様子は「蛍の名所」にふさわしい情景です。ここの蛍は大きく、強い光を発するといわれ、京都の宇治や近江の瀬田にも勝り、夜空を星のように乱れ飛んでいたと説明されています。
此地の蛍狩は芒種(二十四節気のひとつ 6月5日ごろ)の後より夏至までを盛りとす。草葉にすがるをば、こぼれぬ露かとうたがひ、高くとぶおば、あまつ星かとあやまつ。游人暮るるを待ちて、ここに逍遥し壮観とす。夜涼しく人定まり、風清く月朗らかなるにおよびて、始めて帰路をうながさん事を思い出したるも、一興ととやいわん。

永正十三年(1516)正月
後奈良院
御選「何曾」 
秋の田の露おもげなるけしきかな


最後の下りがわかりにくい。
「何曾」というのは「なんぞ?」であり、いわば「なぞなぞ集」です。
そこで「秋の田の露おもげなるけしきかな」とはなぁ〜だ?とあって
答えは「蛍」です………。
解説にこういう趣向があるのは面白いですね。江戸名所図会の解説文とこのなぞなぞはどちらが早く書かれたものなのか?と思わせぶりになっている。

ところで「田島橋」の名前の由来ですが、江戸時代に下屋敷が鼠山一帯にあった安藤但馬守がよく使ったため「但馬」、それが「田島」に変じたという説があるが、わたしの古地図にその下屋敷がないので、あやしいものだ。


画像宮田橋
上記古地図を見ると、この橋の南は「宮田」という集落がありここから橋名としたのではないだろうか。北側は氷川神社があり、またボタンが有名な薬王院(通称「ボタン寺」)がある。その季節には行ってみたいところですね。

画像落合橋
「落合」とは川と川との合流地点を指す。このあたりかつては妙正寺川が神田川に流れ込んでいました。下落合駅付近。「落ち合う」………なんとなく艶っぽい語感がするのだが、落合橋に立つとまるで艶消し。「不法投棄厳禁 ここはゴミ捨て場ではありません」と四か国語のプレートがかかっていて、その後ろにゴミの袋が重なっている。
橋から見える風景も殺風景です。なぜかと言うと、神高橋より瀧澤橋までは遊歩道がなく、川岸には背中合わせでびっしりと低層住宅が軒を連ねている。

昔は景勝の地だったのですが………

江戸名所図会 「一枚岩
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江戸名所図会・一枚岩
落合の近傍、神田上水の白堀通りにありて一堆の巨巌水面に彰れ藍水巌頭にふれて飛灑す。此水流に鳥居が淵、犀が淵等その余小名多し。此辺は都て月の名所にて、秋夜幽趣あり

釣り人あり、また、酒を酌み交わしながら音曲を楽しみ、瀬の音に耳を傾けては、景色を賞でるなどの風流人にとって、近在での名勝の一つでありました。

画像瀧澤橋

親柱も含め見るからに新しい橋ですね。平成元年に修築されたようです。
ここから上流は遊歩道があって気分も新たに気持ちよく歩けそう。

上の地図を見ればわかりますが、瀧澤橋、次の新堀橋あたりで神田川と妙正寺川は最も近接しています。

次の新堀橋あたりで、現代神田川に関する水対策のポイントがいくつか見られますので、じっくりと観察しましょう。

画像新堀橋
神田川46番目の橋は新堀橋です。新堀橋の「新堀」とは新しく開削された水路を意味します。新堀橋付近の神田川の流れは昭和初期まで西武新宿線の北側へ(上記現代地図の妙正寺川に架けられた千代久保橋や辰巳橋あたりまで)蛇行していた。ほぼ古地図にある流れで、これだけ蛇行していれば洪水が発生しやすい。昭和に入ってこの流路を東西(新堀橋付近から落合橋付近まで)に開削し短絡化し流れを円滑化した。「新堀」とはこの新しい開削を指したものです。

そして妙正寺川との合流点が瀧澤橋下流あたりへ移動した。 

この時の妙正寺川の流路
下図の黄色線 妙正寺川は神田川の瀧澤橋下流に合流していた。
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しかし 市街化の一層の進展はこの改修によりできた妙正寺川との新しい合流点一帯での水害を一層深刻化させたものと思われます。
「新宿歴史博物館提供 写真で見る新宿」にある「昭和45年の妙正寺川・神田川合流地点」(Click!)です。
これは昭和45年の写真です。
なんとも怖ろしい。
都市型排水路!これを見れば大雨による被害の恐れがいかに高い地域であるかを実感できます。

さらに落合水再生センターの稼働(昭和39年3月)による処理下水の神田川への放流が始まっていた。
またいわゆる高田馬場渓谷というボトルネック(前回ここを観察しました)Click!が引き起こす洪水が頻発し、思い切った対策が必要になっていた。

画像高田馬場分水路の施工
政府の分水路整備方針があった。「既成市街地で河道沿いに住宅が密集していることや、幹線道路が隣接するなど河道拡幅が困難な箇所では、本川に沿った道路下に暗きょを整備する分水路方式により、流下能力を高めことで水害の軽減を図っている。」そして昭和41 年に水道橋分水路に着手し、現在、江戸川橋分水路、高田馬場分水路、水道橋分水路、お茶の水分水路の4 箇所が完成している。
私たちも下流にあるお茶の水、水道橋、江戸川橋の三つの分水路は観察してきました。
高田馬場分水路は昭和43〜57年度に工事が行われ完成しました。(写真は新堀橋左岸に見える吞口)
入口には本流よりも一段高い間仕切りが設けられ、水位が一定以上に高まればここへ流れ込むようにされている。
高戸橋上流の高田馬場分水路の吐口(Click!)

上の航空写真に記した妙正寺川の旧流路(黄色線部分)は埋め立てられ新流路は辰巳橋先で暗渠に入ります。
二つの川の現在。下記航空写真。
妙正寺川の旧流路の痕跡があるのが見えますね。

画像


それでは西武線をわたり妙正寺川暗渠入口を観察することにしましょう

画像新堀橋を北に進み、西武線の踏切をを渡って、妙心寺川の千代久保橋に出ます。そこから辰巳橋の橋桁の向こうに暗渠入口が見えました。なぜかラブホテルの駐車場入り口に似ています。メンバーのみなさんはお疲れの様子でしたので、わたしとTさんとで辰巳橋まで足を延ばしてじっくりと観察しました。
流路の真ん中に仕切りがあって、流れが二筋に分かれて入路しています。なぜか?よくわかりません。吐口も二筋になっていたことを思い出します。

画像オヤッ! いったいこれはなんだ!  
たまたま辰巳橋から右岸下を覗いた時のことです。一本の流れが勢いよく入り込んでいるのです。

そうか これは先ほど見た、神田川・高田馬場分水路がここに通じているんだ! 

だが、あの吞口は神田川の水位が低いから流入はなく乾いていたぞ!

では一体この流れはなんなのだろう?
 


ふたりで推測した結果は分水路のどこかに落合水再生センターの放流受け口があるに違いないというもので、水再生センター訪問の際に確認することにしました。

そうであればこの場で、妙心寺川と水位の上がった時の神田川水系と水再生センターの放流水の三本がまじりあうことになります。

現代に苦悶する神田川………神田川を逍遥する一つの視点


神田川逍遥会は隅田川河口よりスタートしここ新堀橋まで遡行してきました。まもなく神田川全長の中間地点に到達します。神田川は多様な観点で眺められる四次元時空ですが、妙正寺川の暗渠と高田馬場分水路吞口を観察した機会ですので、これまで見聞きしてきたことを「神田川の都市河川への変貌と治水事業」という視点でまとめておきます。

江戸の人々の飲料水や農業用水、江戸中心部の洪水対策、物資の輸送、城郭都市の防衛など江戸時代の神田川は人々の生活を豊かにするベクトルの推進力となっていました。神田川に感謝を捧げる宗教が、神話や伝説が数多く生まれました。神田川は浮世絵・錦絵や俳諧・川柳あるいは物語にとりあげられ大衆の人気を博していました。江戸名所図会がいくつも神田川を紹介していますが、そこには観光や風流を楽しめる景観があったのです。
このように江戸時代の神田川は物質文明の発展のみならず多元的な精神文化を育てる源流になっていたのです

時代は江戸から明治に変わりました。近代水道の通水に伴い神田上水の役割は終わりました(明治34年・1901に市内の給水は停止)。鉄道の発達により水運のメリットがなくなります。江戸防衛の役割はとうにありません。ところが皮肉なことに、もともと平川の氾濫対策として整備された神田川自体が水害発生の源になってしまったのです。

神田川流域の下流部は、昭和初期にすでに市街地が形成されていました。中・上流部においても流域のほぼ中央を通るJR 中央線などの鉄道や幹線道路がありますから、東京の中でも比較的早い時期から市街化が進んできたゾーンです。現在ではほぼ全域が市街化され、流域内の自然地(田畑・森林・空地・公園・水面等)はほとんど残っていません。神田川の源泉である清らかな湧水の量は限りなくゼロに近づいています。その代り高度成長期には神田川全流域は汚染された水や下水の捨て場となりました。神田川は隅田川まで続く巨大などぶ水の排水溝と化したのです。さらに水害対策として経済効率性が重視されたコンクリートの直立護岸が全域で採用され、そのほとんどが川床までもコンクリートで敷き詰められた三面張り、U字構護岸工事でした。汚れた水は川床からは地中に浸透しません。また自然の作用による浄化機能が失われていますから、汚泥が滞留し、いたるところで悪臭を放ちました。

どぶ水のせいだけではなく、コンクリートの壁が高く深いため人は川の水に触れることができません。この状況は今でも変わりません。親水とか親水公園とか、それなりの意匠は工夫されていますが、私たちが神田川の川面に手を触れることができるのは残念ながら井の頭公園の中だけです。こうして水辺と住民のかかわりは疎遠になってしまいました。さらに高速道路は用地買収の必要がないという合理性から水路上に覆うように架設され、神田川を太陽がみえない陰鬱な淀みに変貌させました。
神田川だけでなく都心の「河川」はすべてが邪魔者になったのでしょうか。臭いものには蓋。埋め立てられ暗渠化されほとんどが見えなくなっています。
全域で開渠なのは神田川ぐらいです。

臭い、汚い、危険な存在、どうしても我慢できないのは洪水であり、財産・生命が直接犯されるリスクです。
都内の市街化により雨水の貯留・浸透機能が低下し、その結果、区部に降った雨は、地中に浸透せず、逃げ道はありません。河川・下水道へ一気に集まる状況が生まれたのです。海まで距離があるため、川の許容量を超えればすぐに川の水はあふれます。これが都市型洪水です。神田川は、1時間30ミリ程度の雨でも水害を起こすようになりました。特に、顕著だったのが新宿区高田馬場1丁目地区。そして、中野区弥生町です。高田馬場地区は、先日観察したように川幅の狭い急流の「渓谷」でした。この下流でしばしば氾濫がおきました。

その洪水対策としては古くから護岸の整備が行われていました。コンクリート三面張りの護岸工事は環境悪化という問題を残しながら背に腹は代えられないと水害対策として進められてきました。
政府機関の報告書によれば、戦後、昭和33 年9 月狩野川台風による神田川流域で発生した大きな水害を契機に昭和34 年から本格的な整備が着手され、昭和56 年には1 時間に30mm規模の降雨に対応できる護岸の整備が完了、現在は50 ミリ規模の降雨に対処する護岸整備を進めている………とされています。また、平成17 年9 月の1時間100oの集中豪雨により、善福寺川や妙正寺川沿いの地域で、3 千戸を超える浸水被害が発生したことから、「河川激甚災害対策特別緊急事業」(以下「激特事業」とする。)が実施されました。
いまでも、川沿いの土地を買収して川幅を拡張し、橋を改築して護岸を整備しているところが見られます。その現状をこれからもうすこし川をさかのぼったところで見聞することができます。

しかし護岸整備だけは近年の集中豪雨には限界があります。

分水路建設が始まります。
既成市街地では川沿いに住宅が密集していることや、幹線道路が隣接していることによって川幅の拡張が困難なところが多く、本流に沿った道路下に暗渠を整備する。これが分水路で、流路のボトルネックを回避し、流水量を増やせますから水害のリスクを大きく軽減させます。
昭和41 年に水道橋分水路から着手され、お茶の水分水路 江戸川橋分水路、高田馬場分水路の4 箇所が完成しています。すべてこれまでに見てきたところです。
高田馬場分水路ですが、1968年〜1982年で施工となりました。この工事で妙正寺川は、直接神田川と合流しないように流路が変えられ、高田馬場分水路に合流するようになりました。さらにいわゆる高田馬場渓谷のボトルネックも解消されました。この完成により神高橋付近の水害の危険はかなりの程度緩和されました。

分水路の完成で水害のリスクはかなり減少したのですが、近時の異常気象は異常ではなくなり、都心の集中豪雨は多発化しています。いまや神田川は分水路の許容量を超える増水が起こるのです。

そして調整池の建設が必要とされました。上流の妙正寺川には数カ所に調整池が作られます。増水時にここに水を蓄え水位が減ると再び水を川に戻す設備です。昭和54 年に善福寺川において和田堀調節池群の整備に着手し、神田川・環状七号線地下調節池等9 箇所が完成しています。
神田川逍遥会でも11月には環状七号線地下調節池の見学を予定しています。
さて広く治水といいますと洪水対策だけではありません。下水処理、川の再生も重要な事業です。この件については、落合水再生センターを9月に見学します。

沿道の環境改善。遊歩道の整備等広義の親水施設が色々と工夫されています。わたしたちはをこれまでの遡行で遊歩道、桜並木、公園など都会とは思えない落ち着いた環境を楽しんできたわけです。その現状をこれからの逍遥の中でも観察していきましょう。

護岸整備、分水路、調整池の建設、下水処理と再生水の供給、遊歩道の整備や景観の改善。つまり神田川と市民生活との調和です。一度死んだといわれた神田川にも魚、鳥、昆虫、水生植物など生き物が戻ってきています。神田川の再生です。逍遥会は神田川遡行を通じてこれらの進捗を実感していきたいと思っています。



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