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zoom RSS 新・神田川遡行 24 末広橋より淀橋

<<   作成日時 : 2015/11/02 18:41   >>

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画像柏橋から末広橋へ向かう。
また嫌な臭いが漂ってきた。末広橋の手前左岸に旧桃園川の合流口が見える。臭いの元だな。江戸川橋でもそうであったが、暗渠化して汚水が流れる旧河川の出口はたいがい汚臭がでている。神田川がきれいになったと言ってもまだまだやり残しいるところは多い。
桃園川は杉並区と中野区を流れる河川で全区間暗渠化されている。中野区内では「中野川」とも呼ばれている。現在の暗渠は桃園川幹線という下水道になっている。神田川への開口部は桃園川幹線からの分水で本来の川の水ではない。

画像末広橋
56番目の橋です。大久保通りを渡す。
橋の中野側に小公園があって、そこにこの「神田川の碑」がポツンと据えられている。あの歌の舞台は高田馬場のはずであり、なぜここにあるのかはわからない。
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画像このあたりから進行方向に新宿の高層ビル街が見えてくる。
手前の低層住宅群のむこうに摩天楼がそびえる対照的風景に、誰かが格差の中でようやく生きている若者の群像「神田川」を見たのかもしれない。

貴方はもう忘れたかしら
赤い手ぬぐい マフラーにして
二人で行った 横丁の風呂屋
一緒に出ようねって言ったのに
いつも私が待たされた 

洗い髪が芯まで冷えて
小さな石鹸 カタカタ鳴った
貴方は私のからだを抱いて
冷たいねって言ったのよ
若かったあの頃何も恐くなかった
ただ貴方のやさしさが 恐かった
 〜〜〜〜

川沿いは戸建て住宅が閑静なたたずまいを見せ、散歩道は深い緑で覆われ真夏の陽ざしや蝉しぐれも一時忘れさせてくれる。東側は新宿側になるが、桜並木が続いてよく整備された遊歩道が長く続く。護岸もツタで覆われ見る人の心が落ち着く。西の中野区側は新宿と張り合う形で花壇が続いていている。
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57 伏見橋
M女さんが突然
「このあたり、山岡鉄舟にゆかりの高歩院というお寺があるはず。実質は道場らしいけど。」といわれる。
「鉄舟が禅と剣の道場を開いていて、皇居が火事になった時、天皇の身柄を案じここから馬を走らせたそうです。この経験から宮城の近くに移転したのだと聞いています」
さすが才女の思い浮かべることはレベルが高いと感心しました。

で、あとで調べてみましたが、「伏見橋」の由来に繋がるポイントをもついたひとことだったのだと、ますます頭が下がりました。

「伏見橋」、名前の由来は、明治時代の後半、この付近に14世紀から550年続き、戦後廃止された皇族「伏見宮家」の広大な別邸が存在したことからくる。伏見家は紀尾井町の現在のホテルオータニ敷地にあったものだが、明治30年代にここに移転してきた。
山岡鉄舟はそれ以前にここに住んでいた。この邸内の庭園「成趣園」を関精拙が寄贈を受け、ここに鉄舟を開基とし、鉄舟の持仏聖観世音像を本尊として開山したのが「鎮国山高歩院」なのです。「高歩院」の寺号は山岡鉄太郎高歩(たかふみ)からとっている。昭和20年5月第二次大戦による本土空襲によって、庭木のすべてを焼失し、見る影もなくなってしまいましたが、現在は、ここに鉄舟会禅道場を建設し、修禅の道場として、広く教化活動を続けている。(高歩院のHPより)
明治6年(1873)5月5日未明、紅葉山女官房の不始末から出火し皇居内に燃え広がった。すわ一大事!と大刀をひっかつぎ、人力車を韋駄天のごとくに走らせ、火消しで大混乱の皇居内を尻目に天皇のご寝所前廊下まで一直線だ。ところが鍵がかかっていて扉があかない。鉄舟は巨体を体当たりすること二度三度。ようやく扉を破って寝所に転がり込んだ。
天皇は「おお山岡!待っていたぞ」と叫んだとか。
この場所ではいざという時に皇居から遠すぎると、四谷の紀州家家老の屋敷、現在の学習院初等科があるあたりに引っ越した。仮御所に面している。
この一件により山岡鉄舟は天皇の信頼をますます高めた。
山号の「鎮国山」も鉄舟らしくてよろしい。

一度行ってみたいところだ。

下記地図参照


画像58 栄橋

神田川の意匠は、川床、護岸のデザイン、橋や防護柵など単調であり、頑丈な護岸で守られた整然の水路である。だから壁面にツタを這わせる緑化事業は新鮮だ。


画像59 淀橋
青梅街道を渡す淀橋に出ました。昔は淀橋浄水場があって神田川逍遥会のメンバーにとっては高校時代の思い出が残る懐かしい場所である。M女さんの住まいが近くにあったとか、M男さんの友人が淀橋警察署のお世話になったとか、十二社がどうとか、まぁ雑談が出やすい場所です。
「淀橋」の由来についての家光説や関連する中野長者伝説など詳細は「神田川遡行 その六 淀橋から中野新橋 」(Click!)に詳しく記してあります。

江戸名所図会 淀橋水車
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解説文は
淀はしハ成子と中野との間にわたせり、大橋小橋ありて橋より此方に水車回転(めぐ)る、故に山城の淀川に準(なぞら)へて淀橋と名付へき旨台命ありしより名とすといへり、大橋の下を流るるは神田の上水堀なり。 
青梅街道は太田道灌が江戸城築城に際して資材として青梅方面の木材や石灰を江戸に運ぶため工事させた道だそうだ。江戸発展のインフラであったのだろう、料理屋や茶店が軒を連ね、沿道を行く人の賑わいもただならぬ。このあたりは昔からこうっだったのか。
左の橋が神田川に架かる淀橋。右に見える橋は、神田川に助水として取り込んでいる玉川上水に架かる橋のようだ。手前に引き込み流路があり草ぶき屋根の中では大きな水車が回っている。農業用水路で小麦粉や米麦を挽いていた。神田川最初の水車だ。江戸川の関口にも水車がありました。

御府内備考によれば。
水車場所之儀者往還より三拾間余引込 此建家間口拾一間奥行五間三尺 水車差渡し一丈六尺巾貮尺八寸 米麦舂臼西之方十東之方十二 石挽臼西之方一ツ東之方一ツ 右貮ツ共やつこふるひ付置申候
 水車の直径は4.8m、幅85cmぐらいだった。
徳川吉宗が鷹狩の時にこの水車小屋へよく立ち入ったという。水車小屋の主である豪農の弥兵衛は吉宗の覚えめでたかったようだ。拝領の品々がたくさんあったと。

ところが幕末の一時期、折からの黒船来襲にあわてた幕府は江戸周辺の水車小屋に火薬製造を請け負わせた。あちこちの水車場での爆発が相次ぎ淀橋では不安になった住民から立ち退きの請願もなされたが、何の対策もなく迎えた嘉永7年(1854年)6月11日、淀橋水車も大爆発を起こし、炎上してしまった。

淀橋水車記が出てもよいぐらいドラマチックであるな。

玉川上水との関係
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江戸時代

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明治時代
濃い水色が助水路

1667年(寛文7年)、神田上水の水不足から、これを補うため玉川上水路から分水させて神田上水へ送る水路が開削された。これが神田上水所水路である。
この地図より南、玉川上水路の正春寺付近から現在の十二社通りにすすみ途中熊野神社を通って淀橋の神田上水路へと注ぐ1.5キロの水路で、1895年(明治28年)淀橋浄水場ができるまで使用されていた。

7月19日暑い夏日もはや4時半になりました。
これから、新宿へ向かって三丁目のレストランで反省会です。


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