日記風雑読書きなぐり

アクセスカウンタ

zoom RSS 秋深し 出羽三山 二日目  難解なり出羽三山神社 そして酒田へ

<<   作成日時 : 2015/11/26 15:53   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

画像
出羽三山とか出羽三山神社とか羽黒山の三神合祭殿とかややこしい関係だと思っている。出羽三山とは月山、羽黒山、湯殿山の総称だとはわかっている。それぞれの山頂に神社があり(月山神社、出羽神社、湯殿山神社)その総称が出羽三山神社なのだそうだ。三山のうち羽黒山には本来の出羽神社とは別に三つの社の神を併せて祀る三神合祭殿がある。どうもこういう整理なのだ。出羽三山は「でわさんざん」と読むが、出羽神社は「いではじんじゃ」と読むらしい。
画像

画像
いい加減なようだが………今日は羽黒山にある神社を詣でるのだがそれはおそらく三神合祭殿を詣でるのだろう。いまいる場所 は羽黒山参詣道の入り口にあたる「随神門」である。

随神門
画像

今でもそうだが、日本人は神に仏にもお願いごとをするし、ありがたいものだと受け止めている。「神も仏もない」。だから古来の神仏習合が明治政府の廃仏毀釈によってなくなってしまうことはなかった。捩じれが発生したということだろう。それまで仁王門だった門が随神門と変わって、仁王様はどこかへ移され、いまは小さな神様が弓矢を抱えて鎮座している。
門をくぐればそこは聖域だ。巨大な杉の老木が並木をなし、昼なお暗く修験の場にふさわしい。
画像

山麓の随神門から山頂に至る1.7キロ、参道の杉並木は樹齢300年以上を経た巨杉が並ぶ。特別天然記念物
画像
清流のせせらぎを楽しみながらやがて左手に国宝五重塔が見えてくる。現在の塔は600年ほど前に建てられたもので、東北では最古のもの。素木造り、柿葺、三間五層の歳月を重ね、杉木立の間に立ち上がる姿には時を経て変わらない優美さがある。

五重塔を過ぎると2446段もの階段が…。しかし、71歳と72歳の私たちに歩く自信はなく、一度随神門に戻り、車で山頂まで行くことにしました。

ところで「修験道」とはなにか?と出羽三山神社HPをひもとけば………
修験道の概念 「羽黒派古修験道」
日本で発生し成立した山の宗教。神霊の宿る山岳を行場とし、自然崇拝を根幹とする呪術的な日本固有の信仰 (古神道)を、ありのままの自然を究極の仏の世界と捉え、山の大自然の中に身を投じ自然と一体化する(密教)という世界観によって体系づけ、全てに仏性がある(法華経)という自覚と、往生思想(浄土教)を融合し、呪術(陰陽道)を用い、神仙術(道教)を駆使することによって、除災・招福・治病・延寿の呪禁力を発揮する宗教。
これほど難解な思想が盛りだくさんな宗教なのだと知って愕然とする。しかもこれは「羽黒派」に限定された考え方なのだ。
画像
羽黒山頂の駐車場から三神合祭殿へ向かう。ハラハラと風にあおられた落葉の中を歩いていく。赤みがかった朽ち葉に染められた林の中に芭蕉像や小さな社の列をなしたのがが見え隠れしている。
出羽三山には百一末社と称し、羽黒を始め月山、湯殿山の山嶺、または幽谷に多数の末社が散在している。写真の末社は左から大雷神社、健角身神社、稲荷神社、大山祗神社、白山神社、思兼神社、八坂神社。

画像鐘楼と建治の大鐘(国の重要文化財
堂は鏡池の東にあり、切妻造りの萱葺きで、小さいが豪壮な建物である。最上家信の寄進で元和4年再建した。山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物である。鐘は建治元年の銘があり、古鐘では、東大寺・金剛峰寺に次いで古く且つ大きい。この鐘は文永・弘安の蒙古襲来の際、羽黒の龍神(九頭龍王)の働きによって、敵の艦船を全部海中に覆滅したので、鎌倉幕府は、羽黒山の霊威をいたく感じて、鎌倉から鐘大工を送り、羽黒で鐘を鋳て、羽黒山に奉ったのであるという


画像蜂子皇子
怖い顔をしたお方だな。そもそも

崇峻天皇5年(592年)、蜂子皇子の父である崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺された。蜂子皇子は海路で逃れ現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた。海岸から三本足の烏(ヤタガラス)に導かれて、羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いた。カラスに導かれた山だから羽黒山だ。残されている肖像画は、気味の悪いものが多いが、多くの人の悩みを聞いた結果そのような顔になったとも。出羽三山神社にある皇子の墓(東北地方で唯一の皇族の墓)は、現在も宮内庁によって管理されている。

三神合祭殿


社殿は合祭殿造りと称すべき羽黒派古修験道独自のもので、高さ28m(9丈3尺)桁行24.2m(13間2尺)梁間17m(9間2尺4寸)で主に杉材を使用し、内部は総朱塗りで、屋根の厚さ2.1m(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物である。現在の社殿は文政元年(1818年、江戸時代)に再建されたものだが、萱葺の建造物としては日本最大の大きさ。われわれは車で来たが2446段の階段を登ってこれを拝むのはまた格別だろう。
平成12年、国の重要文化財に指定されている。
三神合祭殿は一般神社建築とは異なり、一棟の内に拝殿(礼拝の場所)と本殿(ご神体を安置する場所)とが造られており、月山・羽黒山・湯殿山の三神が合祀されているところから、合祭殿造りとも称される独特の社殿で、内内陣は御深秘殿と称し、古来17年毎に式年の造営が斎行されている。また御本殿長押には、二十四孝の彫刻があり、三神合祭殿額の題字は副島種臣の書である。
画像

月山神社は、天照大神の弟神の月読命(つきよみのみこと)、出羽神社は出羽国の国魂である伊氏波神(いではのかみ)と稲倉魂命(うかのみたのみこと)の二神、湯殿山神社は大山祗命(おほやまつみのみこと)、大己貴命(おほなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の三神を祀る。月山と湯殿山は冬季の参拝が不可能であることから、羽黒山頂に三山の神々を合祭している。また広大な山内には百八末社といわれる社があって、八百万(やおろず)の神々が祀られている。

明治の前には、月山は阿弥陀如来、羽黒山は聖観世音菩薩、湯殿山は大日如来を本尊としていた。そんな話も聞けば、拝殿を前にして、むこうにはどなたがおいでになるのかと首をひねるのは、無宗教者だからであって、信仰とはそういう理屈に関わりないところが本質なのだろう。
画像

社殿の正面に紅葉が一本あって、色鮮やかに枝葉を伸ばしているのが目についた。
その前に鏡池が広がっている。

この池は御本殿の御手洗池であり、年間を通しほとんど水位が変わらず、神秘な御池として古くより多くの信仰をあつめ、また羽黒信仰の中心でもあった。古書に「羽黒神社」と書いて「いけのみたま」と読ませており、この池を神霊そのものと考え篤い信仰の捧げられた神秘な御池であり、古来より多くの人々により奉納された、銅鏡が埋納されているので鏡池という。蓮の花の季節は終わって、葉が水面を覆っていた。
画像


酒田へ向かう
1672年(寛文12)河村瑞賢(ずいけん)が西廻(にしまわり)航路を整備してからは、最上川舟運と結び付いた米の一大集散地となり、日本海沿岸有数の港町として繁栄した。最上川の舟運より運ばれた紅花や米、各地の特産物が北前船に積まれ、日本海から瀬戸内海を廻って、大坂、さらには江戸に運ばれた。井原西鶴の『日本永代蔵』にも当時の酒田豪商のにぎわいぶりが記されている。

酒田発祥と三十六人衆

文治5年(1189)奥州藤原氏が滅亡を迎えると藤原秀衝の妹・徳の前が三十六騎の縦臣を従えて落ち延びさらに酒田宮野浦に逃れ出た。三十六人の遺臣たちは地侍として住み着き、廻船業を営んで港の繁栄を支えたといわれている。このころは、酒田の中心地は「向酒田」と言われた最上川左岸にあったが、徐々に対岸の現在地に移転がはじまり、三十六人衆も、一団となって移動、砂丘地を開拓して本町を作り一丁目から七丁目まで家屋敷を構え、問丸を開いて、酒田湊の基礎を築いたという。

画像

画像本間家旧本邸
「西の堺、東の酒田」と呼ばれ、「酒田三十六人衆」でもある本間家や鐙屋(あぶみや)は大商人になった。特に本間家は戦前までは日本一の大地主としても知られており、『本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に』と呼ばれるほどの財力を誇った。最も権勢を誇った本間光丘は、日枝神社の創建や庄内砂丘に防砂林を作るなど、今日の酒田の基礎を作った。
本間家旧本邸は三代光丘が幕府巡検使一行の本陣宿として明和5年(1768)に新築し、庄内藩主酒井家に献上、その後拝領した屋敷である。さすが豪商の屋敷だけあって、武家屋敷と商家造りが一体となった建築様式は当時が偲ばれるなかなか面白い史跡だった。
画像

画像山居倉庫(さんきょそうこ)
米どころ庄内。米積出港酒田。山居倉庫は明治26年(1893)に建てられた米保管倉庫で今もその機能を果たしている。庄内、酒田のシンボルといえそうだ。
白壁、土蔵づくり9棟からなる倉庫の米の収容能力は10,800トン(18万俵)。夏の高温防止のために背後にケヤキ並木を配している。 樹齢150年以上のケヤキ36本の連なる並木は既に落葉を降らせておりました。
敷地内には酒田市観光物産館「酒田夢の倶楽」がありそこの食堂「芳香亭」で昼食をとりました。思いがけなくおいしいセットメニューでした。

国指定史蹟 旧鐙屋
もう一軒の豪商屋敷跡
画像

画像酒田を代表する廻船問屋「鐙屋」。酒田三十六人衆として町政にも参画し、江戸時代の日本海海運の大きな役割を担っていた。 昭和59年に国指定史跡となっている家屋は、弘化2年(1845)の大火の直後に再建されたものといわれ、当時の庄内地方で広く用いられていた「石置杉皮葺屋根」の典型的な町屋造りで、平成10年に修復作業を終えてから一般公開されている。内部は通り庭(土間)に面して、十間余りの座敷、板の間が並んでいて、当時の大商人の店舗を生き生きとして伝えております。
井原西鶴の「日本永代蔵」に取り上げられるくらい隆盛を誇った豪商なのです。
「日本永代蔵」巻二「舟人 馬かた鐙屋の庭に」
ここに酒田の町に、鐙屋といへる 大問屋住けるが、昔はわづかなる人宿せしに、其身才覚にて、 近年次第に家栄へ、諸国の客を引請、北の国一番の米の買入れ、 惣左衛門といふ名をしらざるはなし。 表口三十間裏行六十五間を、家蔵に立つづけ、台所の有様、 目を覚しける。


江戸時代の酒田の繁栄を感じ取るには本間家旧本邸と旧鐙屋の見物は欠かせませんね。

画像見られなかった日本海に沈む夕陽
我々は鳥海山ブルーラインを走りました。全山紅葉で夕陽を眺めるつもりでしたが、あいにくの大雨と濃霧の繰り返しにあきらめざるを得ません。

宿泊の「鳥海山荘」も写真のように濃霧に包まれていました。







にほんブログ村

にほんブログ村

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
秋深し 出羽三山 二日目  難解なり出羽三山神社 そして酒田へ 日記風雑読書きなぐり/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる