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zoom RSS フェルディナント・フォン・シーラッハ 『禁忌 TABU』  もやもやの核心をどうとらえるべきか?

<<   作成日時 : 2016/04/03 19:09  

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画像飾り帯の宣伝文句には「ラストに明かされる衝撃の結末」とあり、前作の『犯罪』がとても魅力的な犯罪小説であったため期待をして手に取った。いくつかの出版社が企画した昨年度傑作ミステリーの上位にランクされている。
取りつく島のないもやもやの核心を読者としてはどうとらえたらよいのか?魅力的な文体に迷走させられながら、ゼバスティアン・フォン・エッシュブルグという芸術家のおこした事件は解明されたのか?それとも読者には全貌を知らせるつもりはなかったのか?それすらわからぬままに、………確固たるはずのおのれの人生だが「実は時間に亀裂が走り、その瞬間、気づく。わたしたちが見ているのは、鏡に映った自分の姿でしかないのだ」………と指摘されても、そりゃそうだと常識的感覚に流されながら、ミステリーを読了した気がしないのである。

ゼバスティアン・フォン・エッシュブルグという写真家の半生が第一の「緑」となづけられた章で紹介される。全体のちょうど半分のページ数が割かれている。ドイツ名家の御曹司でベルリンにアトリエを構える写真家として成功をおさめた男である。倦怠感につつまれてはいるが、カネも地位もあるという、一般的には犯罪とは無関係な距離にある。
この章は簡素で短文からなる印象的な断片で構成されている。極限まで刈り込み研磨されたハードボイルド系の文体であるが、幻想のお伽噺を聞かされているような非現実感覚がつきまとう、不思議な世界が描出される。登場人物の心理や行動を深く説明せず、意味不明の風景や印象を頻繁に差し込み、解決の糸口を与えずに終わるのである。これはイタリア映画の巨匠、ミケランジェロ・アントニオーニによる『太陽はひとりぼっち』の不可解な映像技法を想起させた。映画ではアンニュイな女はモニカ・ヴィッティだったがこの作品ではエッシュブルグがあやしい魅力を見せている。

エッシュブルグが輪をかけて怪しげなのは「共感覚」の保持者であるためだ。「共感覚」、全く知らない概念であった。
共感覚
きょうかんかく
音を聞くと色が見えたり、味に色を伴ったりするなどのように、ある一つの感覚受容器に刺激が与えられたとき、他の種類の感覚が影響を受けて、その感覚に対応する刺激も与えられているように感じる現象。とくに、ある調子の音を聞くと、その音に結び付いて一定の色を感じることを色聴という。しかし高い音には明るい色、低い音には暗い色が、目に見えるように感じるといった典型的な共感覚保持者はきわめてまれであるが、ときには一般の人にも共感覚と類似する現象がみられることもある。たとえば、黄色い声、甘いささやきのように感覚領域の違うものを連想するとか、高い音で色が輝きを増すように感じるとか、などである。[今井省吾]日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
………と一般的な概念を学んでも、またこの作品で説明されるゼバスティアンの「共感覚」を熟読しても、彼の生きている世界は我々の世界とは全く異なるに違いないと理解はするのだが、実感がわいてこないのだ。

物語は派手に転調する。
エッシュブルグはある日、若い女性を誘拐したとして緊急逮捕されてしまう。被害者の居場所を吐かせようとする捜査官に強要され、彼は殺人を自供する。殺人容疑で起訴されたエッシュブルグを弁護するため、敏腕弁護士ピーグラ−が法廷に立つ。果たして彼は有罪か無罪か………。事件専門の弁護士として活躍する著者が暴き出した、芸術と人間の本質、そして法律の陥穽。ドイツのみならずヨーロッパ読書界に衝撃をもたらした新たなる傑作。
なにやら高村薫が『太陽を曳く馬』で描いた芸術家の殺人事件に重なるところがある。
この芸術家は絵を描くことだけが生の証でありそれだけが彼の世界である。彼の世界にはただ絵を描く自分だけがいて、他人は存在しないといってよい。だから彼の言葉は本質的には自分に語りかけるための言葉である。「外の世界に通用する言葉を持たない」のであり、裁判のための言葉からは真実をとらえられない………というのが一つのテーマになっていた。

この作品でもエッシュブルグは真実を説明することができない人格なのだ。イメージや色でなら考えることができるのだが………。肝心なことは言葉にできないのだ。だから自分の世界は他の世界とは違っていることを知っていて、自分の見ているものが現実かどうかも定かでなくなるという不安定な存在者なのだ。

フェルディナント・フォン・シーラッハの前作『犯罪』には核心に近い言葉があった。
私たちが物語ることができる現実は、現実そのものではない。
ヴェルナー・K・ハイゼルベルグ
おそらく、「真実」を言葉で語るのは不可能である………と同意義だと思う。

特筆すべき個性は弁護士のピーグラ−である。人間らしい感性にかけている。情を忌避する。刑事事件の核だけに関心を持ち周辺にある推し量るべきものを無視する。2時間もの推理ドラマにあるような人情話には登場しない人物だ。彼のいろいろなエピソードがブラックユーモアで笑わせてくれる。

その彼が法廷の場で説明困難な「真実」をどのように説明しどのように真実に見せるか。
「法とモラルが違うように、真実と現実も別物だ」とクールに言い放つ。
そのうえで「法廷は真実と向き合う最後の重要な機関だ」とプロ法曹人として真摯な姿勢で胸を張る。
真実を語れない男と真実を創り出す男の対話がこの作品の見せ場であろう。

「悪とは何ですか」「罪とは何ですか」と改めて問われても、この作品には五木寛之『親鸞』以上に説得力があるわけでな

しかし間違いなく型破りな小説だといえる。

「共感覚」が事件と深くかかわるようには見えないし、では彼の起こした事件はなんだったのかと消化しない塊が胃の腑にこびりつく居心地の悪さには参った参った。


最後に大胆に我流の推論をたてよう。
エッシュブルグは自身の存在を確信することができない。自分は誘拐殺人を犯したのだろうか。そうではなくすべてが自分の仕掛けたイメージだったのだろうか。あえて「実存を裁判の場で確認する」ことこそが彼の企みであったと私は思う。そして弁護士としてピーグラ−を選んだ。エッシュブルグはひねくれ者・ピーグラ−の職業意識こそが彼の真実を法廷の場で説明できると信じたからである。


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2017/02/08 17:45

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