03/09/15水村美苗 『本格小説』 中高年が読んでこそこたえられない「大人の恋愛」

ずっしりと時の重みを感じましょう。「青臭い恋愛小説など今さら」と分別くさい中高年が少し気恥ずかしい気持ちで読んでこそこたえられない「大人の恋愛小説」なのだ。
冨美子、戦争直後に進駐軍のメイドとして独り立ちした、長野県の貧農の娘がいま、朽ち果てようとする軽井沢の山荘で、その半生、ながいながいモノローグを青年祐介に語りかける。そして祐介はこの半世紀の膨大な時間の流れのなかで、変わらないままにあるもの、少しずつ少しずつ変化していくものの存在を予感し
油蝉とみんみん蝉は相変わらず激しく啼いていた。高い梢の葉がさわさわ、さわさわ、と動くのも、陽の光がベランダでチラチラと動くのも、すべてがこの間と同じであった。冨美子が突然泣き出したあのときから、ずっとこうしてここに坐っていたような気がする。それだけでなく、もっとずうっと前――なんだか自分が生まれる前から、こうしてここに坐っていたような気さえする。唸るような音がするので首を上げると、また大きいヘリコプターが青い空を渡っていった。『進駐軍かあ』そう独りつぶやいた祐介は、自分で戦後というものが初めて一つの現実となったのを感じた
ながいながい物語であった。わたしは戦後から今日までの経過した時間の重みをずっしりと感じつつ読み進み、言いようのない疲労感から解放されるように読み終えた。それはこの物語の主人公といっていい人物、東太郎とわたしがほぼ同年代であるためかもしれない。戦後から50年余りを経て自身の半生を振りかえるときに、登場人物たちあるいは著者の受けとめた「時間」とか「変化」あるいは「不変」といったものには共通の実感がある。それだけ「老いたのか」とも思うのである。
軽井沢の別荘で美しい3姉妹を中心に繰り広げられる三つの家族の華麗な日常の繰り返しがある。それら家庭には「良家」である当然の歴史の堆積があった。成城のお屋敷の家作に極貧の賎しい一家が住み着くようになったのも偶然ではなく、前の世代の縁ゆえである。
恵まれた家に生まれた少女・よう子と貧困家庭の少年・太郎の幼い交流が恋愛へと発展し、よう子の結婚による終局にみえた二人の関係はさらに様相を変えて展開する。そして悲劇。
ありふれた恋愛物語。
そうです、日めくりカレンダーをめくるような単調な時の繰り返しのなかで目には見えないわずかな変化が積もり積もるようなプロセスが冨美子の口から語られる。そこには劇的な乱調はない、ただ悠然たる時間の流れがあって、その流れに逆らおうとして流され、先行しようとして戻される。人為を拒んでしかし運命ではない、人の営みの累積が生む必然が描かれる。しかし、単調にもかかわらず忘れられなくなる挿話の連続を味わうことになるのだ。
軽井沢の別荘が年数を経て朽ちていくとも、「家系」という概念が死語になるとも、なお変わらずにそこで避暑を過ごす上品に老いた三姉妹、いまだ変わらぬ尊大さには読者の批判を拒む現実の重さがあります。アメリカに渡りベンチャービジネス界の雄となった太郎が「日本は変わったか?」と聞かれる場面もまた印象的である。
彼女のモノローグでは読者に感じさせなかった冨美子と太郎の肉体関係が最後に三姉妹の末娘から語られる時にこの場面だけは予想外の展開にびっくりさせられました。しかし、それで冨美子を猫かぶりの嫌なやつだとか太郎を所詮スケベ人間であったかと思いなおすことにはならず、三姉妹のひとりの伝聞であるから事実ではないかもしれないと考え、あるいは、たとえそれが事実であっても「それはそれで仕方がないだろう」と是認せざるをえない状況描写の緻密さをあらためて堪能することもなる。
振り返って、この物語の主人公は?あらすじは?と書評らしい表現は非常に難しい。そして「時の堆積作用」こそがこの物語の主人公ではないかと思い至るのである。
いま、自分のこれまでの半生を顧みると今日という時に予想できなかった明日が待ち受けていることによる、驚き、喜び、怒り、悲しみなどその時は激しい感情のうねりはあったにしろ、結局はなるべくしてなった事実の積み重ねであったことに気がつき、こういう心境はこの小説の読後の刺激がなせるものか、それとももはや予想がつかない明日はなくなったという事実としての老境のなせるものかと感慨を深くするものである。
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この記事へのコメント
本当に堪えられない恋愛小説でしたね。
ありふれた恋愛小説といえば、確かにありふれてるんですけど、でも本家の「嵐が丘」にも負けない、あるいは優っている勢いがひしひしと感じられて本当に良かったです。
水村美苗さん、他の作品もぜひ読んでみたいです。