司馬遼太郎も知らなかった芹沢「鴨」の由来 茨城のむかしむかし大昔14

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司馬遼太郎『新選組血風録』の「芹沢鴨の暗殺」にはこう書かれている。
この男の生地は、常州芹沢村である。郷士の子で、本名は木村継次といったらしい。芹沢鴨は、脱藩して風雲の中からの名であった。なぜ、鴨という奇妙な名をつけたのかはわからない。一字名をつけたのは、当時、いわゆる志士のあいだで流行していたからであろう。

司馬遼太郎はこのように「鴨」と自称した由来を「わからない」としている。芹沢は新選組の中でも凶暴な男として悪名だけは高いが、近藤、土方、沖田などと比べればはるかにインテリであって司馬が推定するような一字名が流行していたからというほど単純ではないだろう。

芹沢鴨は現在の茨城県行方郡玉造町の芹沢家の三男に生まれ、松井村の神官・下村家の養子となって本名を下村継次(嗣司)と名乗った。司馬遼太郎が「木村」と記しているのは間違いであろう。
尊王攘夷活動が盛んな水戸藩にあって、水戸学と尊王攘夷思想を延方学校(潮来所在の郷校)で学び、天狗党過激派の一味となって攘夷決行のための資金を各地の豪商に強要する先兵であったようだ。鹿島神宮の拝殿にて大太鼓を叩き破ったといわれる愛用の大鉄扇には「尽忠報国」と刻む。剣術は神道無念流の免許皆伝。

常州潮来館(延方学校のことであろう)での逸話を司馬遼太郎は次のように述べている。
隊規を乱したというかどで若い同志三人を土壇場にならばせ、そのあいだを芹沢は奇声をあげて走り、走りおわったころには、鮮血にまみれた首が地上にちらばっていた。私刑がおこなわれたかどでかれは隊の牢に入れられたが
「赤心、たれか知る」
と豪語し数日絶食し、小指を噛みきり、紙片に、
「雪霜に色よく花のさきがけて、散りてものちに匂ふ梅が香」
という和歌をしたためて牢格子の前に貼りだした。意外な文藻があることに。人はおどろいたという。

この後大赦により釈放された彼は清川八郎の提唱した浪士隊(新選組の前身)に参加するために江戸にはいるのだが、このときから「芹沢鴨」と称する。

「鴨」の由来については次項で「常陸国風土記」から推定してみたい。


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