ジェイムズ・カルロス・ブレイク 『荒ぶる血』 深みと広がりを持ったビカレスクロマンの傑作

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原題は「Under The Skin」。血筋、血縁、血脈、血統、皮膚の色、人種、そして血みどろの暴力。久々に無頼のヤカラたちの暴力を描いてしかも深みと広がりを持ったビカレスクロマンの傑作にお目にかかった。

これはあの当時一世を風靡した「マカロニウェスタン」ではないかとそんな思いをさせる臭いがどこかにあって懐かしい。西部劇といえば雄大な自然を背景に開拓者精神を叙情たっぷりに描いた名作の数々と、それに慣れ親しんでいた若者にとってマカロニウェスタンの登場は衝撃的だった。道理だけでは通用しないのがこの浮世なのだと多少わかってきた年頃には直線的破壊が魅力的だった。そこにある自然は荒涼とした砂漠であり、砂埃の舞う辺境の地。硝煙と泥にまみれたポンチョのガンマンたちによって善悪を超越した凄まじいガンファイトと残忍な暴力が連続する。そして血の因縁にまつわる復讐であり舞台はメキシコのようであった。

この物語はリオグランデ河をはさむメキシコとの国境、テキサス州エルパソの娼婦館にメキシコ革命の首謀者の一人パンチョ・ビジャが立ち寄るところから始まる。酷薄で知られるビジャの片腕・フィエロ、昨日300人を殺害したこの「肉食獣」の相手をつとめた娼婦がその結果妊娠する。

20年後、メキシコ湾を臨む町・ガルヴェストン。イタリア系移民二世のマセオ兄弟は「善良な市民のほとんどは口にこそしないがこの町で実際に法を執行しているのは警察ではなく」彼らであることを知っている、そういう地方のギャング。そのガンさばきと体術と命知らずを買われ用心棒をしているのが主人公の「おれ」・メキシコ人との混血ジミーだ。そして同じ用心棒仲間のメキシコ人・ブランドとアメリカ人のLQ。日本的に言えば仁義、任侠道の親分・子分、清水の次郎長一家といったところがあり、「男」を見せた東映任侠ヤクザ路線を髣髴させるところもあるのだが、敵に対する防衛と攻撃の凄惨なことといったらまったく異質だ。

暴力の美学。一言でいえば死に直面することで自己を確信できる男たちのエピソードにグイグイと引きつけられる。それは登場人物たちの生い立ちを素描する中で共通する暴力の背景を滲ませているからだ。メキシコ人との混血を産むことは恥ずかしいことだと考えられている国境の土地柄だ。相手をイタ公、アイルランド野郎、ろくでなしの雑種、ニガーと蔑称し、しかも中国人やメキシコ人の小さなブロックが町の中に共存している。そこは生存を保証してくれるのは暴力のみという真理が貫徹するマイノリティーの坩堝である。そして逆に仲間同士では強い絆がある。

一方リオグランデの対岸、メキシコでも流血の時代だった。20世紀前半にあったメキシコ革命。一般的には欧米先進諸国の支配するディアス独裁体制の打倒と社会改革の実現および外国資本の排除を目ざした民族主義的社会革命と解されるが、メキシコ生まれの著者の歴史観はかなり異なるようだ。革命軍を相手に暴力で栄誉を受け、暴力で財を成したメキシコ軍人。しかし彼の家族は革命のならず者たちに全員惨殺された。彼自身、片目をえぐられる。いまいましい革命めと呪詛する男にとって革命は野蛮な先住民や未開の血の混じる輩、血にくそが混じったゲスどもの破壊暴動でしかなかった。したたかに生き残り、いまアメリカとの国境付近に大農場を経営している。老いてなおこの一帯に君臨する暴君、ドン・セサールが町で見かけた少女を略奪し結婚する。が、この惚れた女が脱走する。怒り狂うセサールは殺し屋二人に女を追わせる。その女は国境を越えガルヴェストンのメキシコ人居住ブロックに逃げ込んだ。そして、「おれ」とセサール、本人たちの知らない因縁の対決がこの作品の縦軸になる。

「仕事じゃないといっただろう。おまえらには関係がない」と単身敵地に殴り込みをかけようとする「おれ」。「おれたちはパートナーだろう」と寄り添うブランドとLQ。
これぞ、あの頃の若者の血を沸かせた高倉健、鶴田浩二、藤純子!待ってました!!!
ラスト、メキシコ、ラス・カデナス牧場での銃撃戦、三対十二の決闘の結末がこれまたすっきりとして、粋な味付けを楽しむことができた。

この快感!時代はますます道理が通じなくなっているからかもしれない。

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