吉田修一 『さよなら渓谷』 この猛暑に汗を流しながら読むべき

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今年の夏はことのほか暑い。外に出かける気にはならず、しかし、なんの因果かわが家のクーラーが壊れているものだから、生暖かい扇風機の風にあおられながら、汗が流れるままにゴロゴロと読書をしている。そういう、いたたまれないようなかったるい気分で読むとどこか主人公たちの無為な日常を実感できるようで、この夏つきあうのにふさわしい内容の作品であった。
桂川渓谷と呼ばれる景勝地が近くにあるがその涼風は届かない。町の奥まったところ、老朽化した市営住宅団地がある。真夏の朝、8時、締め切った狭い部屋、クーラーが機能しなくなった熱気の中で男と女がたらたらと汗にまみれて目を覚ます。家の外は子殺し疑惑の渦中にある母親が包囲したマスコミを口汚くののしる喧騒が続いているが二人は単なる傍観者のようである。契約社員として近くの工場で働く尾崎俊介、30歳半ばを超えている男は少年野球に興味はないが多少の小遣い稼ぎと一回五千円の臨時コーチを引き受けている。上半身ホックをはずしたブラジャーだけの妻かなこ、30歳前半の女は折り込みチラシの求人募集をチェックしながらお昼はまたインスタントの冷やし中華にするという。

暑苦しいな。読んでいるとすえた食い残しや汗と体臭が扇風機にかき回されて漂ってくるようだ。外にある世界との接触を最小限に、毎日毎日同じことの繰り返しで、ひとつところから抜け出せない男と女の結びつき。
私の友人のなんにんかは常識では解せない男女関係にあって、それらを見聞きしている私としては多少常軌を逸した愛の形であってもそれはそれと寛容なのだが、こりゃいったいなんなんだ。お互いの過不足を補い合って前進するのが夫婦ではないか。いい歳をして、一緒にいる意味ないのだから別れなさいと小言のひとつも言いたくなります。

この読者心理を見透かしている作者は、次になぜそんな関係が継続可能なのかをミステリアスに解き明かす。
きっかけは隣家で起こった幼児殺人事件だった。その偶然が、どこにでもいそうな(とあるが、いまはこういうだらしのない夫婦がどこにでもいるんだろうか?)若夫婦が抱えるとてつもない秘密を暴き出す。取材に訪れた記者が探り当てた、15年前の<ある事件>。長い歳月を経て、<被害者>と<加害者>を結びつけた残酷すぎる真実と………

犯罪者は刑期を終えただけでは許されないのか。
罪を償うどんな行為があれば被害者は許してくれるのだろうか。
被害者の復讐心を受け止めることなのだろうか。
被害者はいつまでたっても被害者であってさらに加害者扱いにされる場合もある。
それが世間というものの残酷な素顔なのかもしれない。
罪と罰、贖罪と復讐、言葉にならない真実と周囲が創り出す「真実」、幸せと不幸、そして愛。これまでもおおくの文学が取り上げてきたテーマに違いない。そうであっても深みのあるテーマであって、二人の人間の心理を丹念にえぐって独自のアングルから読み応えある作品に完成させている。実際に起こったセンセーショナルな二つの大事件に似せた背景でもって現代的にさばいた恋愛小説でもある。

「私たちは幸せになろうと思って、一緒にいるんじゃない」
「幸せになったら、きっと壊れてしまう」
このうたい文句だけでは、幸せをもとめて男女が結びつこうとする著者の『悪人』とはまるで正反対のような二人なのだが、読み進むつれ深いところでは、これもまたそれぞれの過不足を相互に補完しようとするひたむきな愛の形であると思えてきたのだ。

さよなら渓谷』のラストで私はもうひとつの作品を思い浮かべた。
ぼんやりと日々を送っている若者「ぼく」が知り合った彼女………。
吉田修一の芥川賞受賞作である『パーク・ライフ』のラストである。
日比谷公園近くのギャラリーで自分のふるさとの風景画を見て突然「よし、………私ね、決めた」とつぶやいて人ごみの中に消えていく。「ぼく」は「明日も公園に来てください」と叫ぶ。そして「ぼく」も今何か決めたような気がした………とこの小説は終わる。

酷似した情景である。人の自立、現状からの飛躍を描いているところも似ている。ただ『パークライフ』はまるで生活の実感がない二人の薄っぺらな出会いと別れであり、本来、自立や飛躍にともなう厳しさが感じられない、つまらない作品との印象が残っている。『さよなら渓谷』は違っていた。重過ぎるくらいの人生を引きずってきた二人には圧倒的な存在感がある。そして一瞬かもしれないが「渓谷」の涼風を爽やかなものとして共有できた二人なのだから、単なるさよならの別れでは済まされない「さよなら」の余韻を残こすのだ。

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この記事へのコメント

2008年08月10日 23:23
こんばんは。
いつも思うのですが、ラストは読者にお任せですね。
期待する半面、終わってるのかも…!?

『パーク・ライフ』はまだ読んでないので、今度呼んでみます。

TB,コメントありがとうございました。

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