亀山郁夫 『「罪と罰」ノート』 ドストエフスキー『罪と罰』を熟読したあとで

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亀山郁夫氏の著書ではじめに読んだのは『「悪霊」神になりたかった男』だった。ドストエフスキーの『悪霊』は岩波文庫の米川正男訳になじめず、新潮文庫の江川卓訳でどうにか通読できたそのころ、この著作でまさに目からうろこが落ちたという爽やかな気分で私なりの理解に到達感を持つことができた。
ドストエフスキーを読むといつものことなのだが、「神」という存在をどうとらえていいのかわからないことで、そこがポイントだと思うものだから余計にいらだたしくなる。ところが『悪霊』に関しては亀山氏の個性が語る神のイメージには、信仰心を持たない私にとって曖昧さがなく、つまりわかりやすく、共感できたところで『悪霊』の理解が進んだのだと思っている。

『「悪霊」神になりたかった男』の一節、9.11のツインタワー崩壊をテレビで見ていた氏は
『悪霊』の一節に思いをはせ、『神は死んだ』と感じ、テレビを見ているわれわれ全員が神になった、という奇妙な錯覚に囚われたものだった。
と述懐している。
われわれ全員が神になったとは?
世界を単に見る対象として突き放す神のまなざし、そして傲慢さこそ被造物たる人間がもっとも恐れるべきことであり、テロリズムの罪の深さは実はテロリストではなくテロルの恐ろしさをテレビの画面越しに見ている私たちにあるのではないか
と述べている。

この印象的な氏の思い入れについては後日私も実感することができた。
あの秋葉原無差別殺傷事件の報道だった。惨劇のさなか、その場に居合わせたものたちが走り回り、倒れた被害者に近寄り、手にしていた携帯電話カメラでシャッターを切る異様な風景があった。ファインダーを通して単にモノを見る、それはぞっとするような傲慢な存在であった。

さてこの段はスタヴローギンの本質を語る前置きなのだが、私は逆に氏のイメージする神とはこれか。人間の営みに悲哀の感情を持たず、突き放して黙過する傲慢な存在なのかと自分なりに解釈し、なるほどそうかもしれないと、神になりたかったスタヴローギンを理解したのだった。
読むものがどのように神をイメージするか。特に信仰心を持たない私のようなものにとって『罪と罰』にあるドストエフスキーのメッセージをどのように受け止めるかは、実体のない神をどのように観念するかよって大きくぶれることになる………と言えそうだ。

『カラマーゾフの兄弟』は新潮文庫の原卓也訳をほとんど積読状態にしていたのであったが、光文社文庫の亀山訳によってこれもまずまずの理解が得られたと言える。氏の翻訳姿勢だが、おそらく彼は現代日本に軸足をおいた彼の視線で、ドストエフスキーを解剖し、見つめなおすところにある。その姿勢があるから亀山流翻訳作品は多くの現代人にとって受け入れやすく、古典文学にしては驚異といわれるほどのベストセラーになったのだと踏んでいる。それだけではない。それぞれの巻末にうまく編集されてあった著者の解説が生き生きとして熟読に値するものだったからでもある。

今般光文社文庫で亀山訳の『罪と罰』が発刊された。これにチャレンジするには本著『「罪と罰」ノート』を片手に分析的に読むのもまた読書の楽しみ方の一つではないだろうか。
そして期待通り、今まで気がつかなかったいくつかの視点で新しい発見にめぐり合えたのだった。

『罪と罰』の舞台、ペテルブルグという都市がまず解説されている。西欧の合理主義文明への開放の扉として建設された人工の都市。ロシアの伝統文化に背を向け、ひたすらヨーロッパを模倣する為政者の狂気。身分制度から解放された自由な農民が流浪の民となって押し寄せてきた都市。絶望的な貧困。犯罪と売春とアル中。悪循環から抜け出せない人々に蔓延する閉塞感、精神のゆがみ、そして醸成される狂気。
これはラスコーリニコフの犯罪の背景なのだが、遠い昔の遠い国の国民的混沌とは思われない。亀山郁夫は読者に対し直接には言わないが、ラスコーリニコフの犯罪には漂流する現代日本を重ね合わせたらいかがですかと、誘いをしている。このたくらみにまんまと乗ろうではないか。ドストエフスキーは未来を予言したという人が多いそうだが、それはともかく、人間の営みや情動にある普遍性をここまで的確に切り取る感覚にはあらためて驚かされる。

『罪と罰』を事前の物語として読むか、事後の物語として読むか、で根本から意味が変わる
と言う氏の指摘にもハッとさせられた。言われてみれば前回読んだときには法の正義と神の真理に背を向けたラスコーリニコフがどうして立ち直れるのか(事後の物語)に関心があって、なぜ人殺しをしたのか(事前の物語)については単純に、彼の犯罪論であるナポレオン主義と片付けていた。本著ではむしろ事前の物語=犯罪の動機にウェイトを置いた詳細な分析と解説がなされている。

第一にドストエフスキー研究家たちの所論を分析している。
第二に前記したようなロシアの政治・経済・社会等環境について。そこから生まれているさまざまな反体制の思想について。宗教観について。
第三にラスコーリニコフの生活環境と鬱病について。そして家族愛について。
第四に氏はドストエフスキー自身がラスコーリニコフになにを託そうとしているかを推定する。このためにドストエフスキーの半生をつまびらかにたどり、この作品に投影された彼の内心の風景を絵解きしなければならなかった。さらには完成された最終稿の前段階にあったドストエフスキーの二つの草稿や編集者等とのやりとりからも氏は絞り込むような類推をする。
私にはラスコーリニコフの犯罪動機は複雑極まりなく重なり合ったものでこれだと断定できるシロモノではないという印象が残る。
次に第五だがこれは氏の独創的なあるいは冒険的なアプローチがあった。この著述の眼目はむしろこの第五の視点に他ならない

実は2005年に刊行された氏の著作『「悪霊」神になりたかった男』の中で『罪と罰』について氏が自信を持って解説することはできない心境を語る次のようなくだりがある。
『罪と罰』は19世紀の小説とはとても思えない現代的なテーマで満たされ、私たちの深層に息づく様々な矛盾を照らし出しています。………。今の私にはそうした彼の(ラスコーリニコフの)若々しい思いあがりや、追い詰められた心境や、一人の娼婦をとおして得られる愛の世界にシンクロし、それについて何かを語るという勇気が出てこないのです。
時を経て今、現代日本人である氏はそのまま「ラスコーリニコフに同期する」ことに、それを不可能と感じながらも、あえてチャレンジしたのではないだろうか。
殺人者が「だれでもいいから殺したかった」と供述する不可解な事件が社会現象化しているのが現代であり、この現代からラスコーリニコフを見つめる。こんなことを氏は書いているわけではないのだが、私には亀山郁夫の脳裏にはこのイメージがあったに違いないと思われるのである。

そして第五の視点から導き出したラスコーリニコフの犯行動機(「究極の動機」)を「純粋意志」と結論付けている。
だが、私には理解できない。
ラスコーリニコフがソーニャに五つの犯行の動機を告白するくだりだがその中で;「ぼくはただ殺したかったのだ、自分のために殺したんだ」というセリフがいちばん近いのだと指摘し「棺のような屋根裏部屋の内側であえてとどまりつづけることでラスコーリニコフは自分の憎悪がおのずから蓄積され、発酵することを待っていたことになる。動機は思想のなかにではなく、意志力そのものに潜んでいた。『あえて、する』(要するに一歩踏み出すという意志力)という行為そのもののなかに潜んでいたといってよい。」とこう説明されても私にはわからないのである。
巻末の「あとがき」で著者は「それこそ(純粋意志)は大地の深みに入り込もうとする人間の素朴な心をどこまでも疎外する傲慢さだった。」と述べている一節にむしろわかりやすさがあるのだが、これを本文に書けなかったところには、なにかしらのためらいがあったのではないだろうか。

氏は「事前の物語」からすでにラスコーリニコフが(本人が意識する、しないにかかわらず)神とかかわって存在していたと解釈しているようである。そうであればラスコーリニコフの犯罪動機には神の存在あるいは不存在が大きくかかわることになる。
『罪と罰』の理解は神を信じる立場と信じない立場とでは百八十度異なる
 と氏は語っている。ところがドストエフスキー自身はどういう立場で神と向きあっていたのかという答えを氏は持ち合わせていないようだ。さらに解説者である亀山郁夫氏自身は神をどういう存在として捉えているのだろうか。ラスコーリニコフの神は氏が『悪霊』でイメージした神とは違ってきているように思われた。ところが亀山郁夫氏が今観念している神については、読者が理解できるところまで語ることができてはいない。本著はこれについて氏自身、内心の整理が未完であることを吐露しているものではないのだろうか。

光文社文庫『罪と罰』3分冊には巻末に訳者の解説があってそれは理解を深めるのに大いに役に立った。しかし本著はむしろ私の理解を混乱させた。しかし読む価値はあった。

本著にはこれまでの『罪と罰』解説本とはまるで異質なところがある。
あえて極論を申し上げる。
「だれでもいいから殺したかった」犯罪者が群れる現代日本。著者はラスコーリニコフを、時空を超えたこの日本に立たせたのだ。どこか類似性があることを感じていた著者は、今の日本でラスコーリニコフの犯罪は成立するだろうか?そして彼は救われるのだろうか?と著者自身に問いかけたのだ。本著は『罪と罰』を解説することを通じて、病める現代日本、そのさまよえる精神構造の深層を探ろうとしているものである。

ラスコーリニコフの犯罪について本著は亀山郁夫氏が現代の翻訳者としてドストエフスキーに挑戦したドラマではないだろうか。未完成なままに(私にはそう思われる)発表されているこの若々しいアプローチがすばらしい。

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この記事へのコメント

のんき亭
2009年08月14日 12:26
初めまして。
私は九州に住む50代前半の一ドストエフスキー・ファンですが、最近このブログを拝見し、気になってコメントさせて頂きます。
亀山先生の新訳『カラマーゾフの兄弟』におびただしい誤訳があることはご存じですか? その概要については昨年私の投稿した下記Amazonレビューをご覧ください。
http://www.amazon.co.jp/review/R1P1FOZANOJD46/ref=cm_cr_pr_viewpnt#R1P1FOZANOJD46
これについての詳しい検証は後で触れますが、これらの誤訳のうちには作品の理解を妨げる重大なものも多くあります。
のんき亭
2009年08月14日 12:27
(続きです)
ところで、今回のブログ記事の『『罪と罰』ノート』は私も拝読しました。そして、驚きました。作品世界の基本的事実について余りにも間違いが多いのです。一方Amazonには絶賛評しかありませんでした。そこでバランスも必要と考えて、6月初めに私もレビューを投稿し、これは、7月末にようやく掲載されました。これ↓です。
http://www.amazon.co.jp/review/R3IX7PCPQYCEBV/ref=cm_cr_dp_cmt?ie=UTF8&ASIN=4582854583&nodeID=465392#wasThisHelpful
その間に、この本に関しては、ドストエフスキー好きとしては、そのままにしてもおけない事態となったので、私は別に一文を書くことになり、現在それが、市民と研究者との交流の場として1969年以来続いている「ドストエーフスキイの会」のHPにアップ↓されています。(但し私は遠隔地にいることもあり、会員ではありません。)
http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost133.htm
名前は筆名です。タイトルが少々刺激的かもしれませんが、他意はありません。実態を広く知ってもらうことは、一般の読者(私もその一人です)、そして、なによりドストエフスキーのために必要と考えました。ご参考になる点があれば、幸いに存じます。
のんき亭
2009年08月14日 12:28
(続きです。)
さて、新訳『カラマーゾフの兄弟』の誤訳検証も会のHPに次の2つの詳細な記事がアップされています。
http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dos117.htm
http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost120a.htm
(②は目次の項目をクリックして下さい。①は商社マンでロシア語の達人であるNN氏によるもの。②はNN氏の協力を得て私が点検したものです。) 
ともに、新訳第1巻を検証したものです。その他の関連のコンテンツは、「管理人のページ」に戻れば、一覧が表示されます。そこから、さらに「ホームページ」へジャンプすると、会のHP表紙に飛び、そこから「亀山郁夫氏『悪霊』の少女マトリョーシャ解釈をめぐる議論」も閲覧できます。なお、会の現在の代表である木下豊房氏は、国際ドストエフスキー学会副会長でもありますが、そんな肩書はどうあれ、70歳を超えた一ドストエフスキー研究者として事態を座視できず、われわれ一市民の声も尊重してくれているというスタンスです。
突然のことで驚かれたことと存じますが、真摯にドストエフスキーに向き合う同好の士のお節介と憫笑され、ご無礼をばお許しください。
のんき亭
2009年08月14日 12:45
すみません。上記URLの各サイトへ飛ぶには、パソコン画面の一番上のバーにURLをコピペして検索する必要があるようです。失礼しました。
2009年08月14日 19:33
のんき亭さん、こんにちは。私のような雑読趣味のブログにこれほど真剣にドストエフスキー作品を読まれている方から参考意見をいただけたことうれしくなりました。
ご紹介いただいた記事を拝見しのんき亭さんのご指摘をもっともだと受け止めています。私には氏の翻訳版に現にある矛盾を見つけるという意識はなかったものですからそのままで読んだことになります。推理小説を読む場合はこれは徹底させた読み方をするのですが。
また亀山氏の『「悪霊」神になりたかった男』でもマトリューシャの歳が違うという指摘があったことも耳にしました。
単純な多数の誤訳は本人が何らかの方法で訂正すべきだと思います。意図的な解釈のための日本語への転換はドストエフスキー研究家として翻訳プロセスでこれをなすことは許されないことだと思います。
彼は学者としてではなく、また翻訳家という肩書きを抜きにして、三田誠広のような立場で自由に、ラスコーリニコフに同期しようとする自分を語るべきだったのです。
「ディテールが運命となって彼に押し寄せる」という発想にとらわれすぎた結果がこの誤訳の大きな原因となっているのではないでしょうか。
私がよくわからなかったのは彼の神に対する姿勢でした。彼はこれを語ることができていません。「運命」という言葉が咀嚼できていません。つまり読者は肝心な彼の発想を理解することができないのです。
だから私は彼が押し付けようとしている組み立てとは違うものを一読者として持っています。
ただしこの著にはドストエフスキーを読む、『『罪と罰』を読む、本好き私の背丈に適った基礎知識が多かったことは事実です。

カンナ
2019年11月10日 23:48
『罪と罰』:亀山郁夫著については、「誤訳のてんこ盛り」との評があるが、どれも冊子としては発刊されていない?のは不思議。亀山郁夫の有名さに恐れをなした?あるいは自分の論評に自信がない?人格攻撃に終始しているから?いずれにしても変。文学には批判・批評は必然。ない方がおかしい。是非発刊して公の場に晒して、読者の評価を受けるべきだ。

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