辻原登 『闇の奥』 現代人の喪失感に希望の光があてられるか?

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世界各地に残る小人伝説を追う一大ロマン
小人といえば白雪姫、一寸法師、今公開中の映画『アリエッティ』であり、ファンタジー、子供の夢の世界を思い浮かべる。この作品の小人は身長1メートルほどの種族であり、かわいらしさの象徴ではない。人跡未踏の地に住む、未発見の小さい種族を捜し求める学術的探求であるが、にもかかわらず、それを追い求める人たちは、子供が夢にあこがれるような感性に突き動かされている。
太平洋戦争の末期、北ボルネオで気鋭の民俗学者・三上隆が忽然と姿を消した。彼はジャングルの奥地に隠れ住むという矮人族(ネグリクト)を追っていたという。三上の生存を信じる者たちによって結成された捜索隊は調査をすすめるうち、和歌山からボルネオ、チベットへと運命の糸に導かれていく。
三上の生存を信じる村上三六らは昭和30年から昭和57年まで三度にわたってボルネオ・ジャングルの奥深く捜索隊を派遣する。三上の消息に迫るものの、結局、遭遇できずに終結し、関係者もほとんどが亡くなっている。本著は捜索隊のリーダーであった村上三六の息子が語り手になっている。1996年にこれら経緯に興味を持ち、三度の捜査内容を再構築して語り、2009年に自ら、その後チベットのラマ僧になったといわれる三上を追って、中国と紛争中のチベット、ヒマラヤ山系越えなどを体験する決死の冒険譚である。

紀州の山中で遭遇する小人族、ボルネオの密林に住む首狩り族の祈祷、弔いなど幻想的な挿話があって、アメリカCIAのチベット地区における謀略、ダライラマのインドへの脱出、和歌山の毒入りカレー事件、雲南省への日本人マツタケ狩りツアーなど現代の断面を交錯させる。時間は現在と過去を往復させて語られる。

そしてかなり抽象的なテーマがところどころで繰り返される。
ポルトガル語のサウダーデ。会ったこともないのに懐かしいと感じる情感への思い入れである。そしてその延長に当たると思われる現代人の喪失感である。
蝶に導かれることで小人に会うことができる。小人にあったことを他人に語ると不幸が訪れる。ヒマラヤ山系の裾に和歌山の大塔山が連なって、時空がそこでねじれている。小人族は異星人である。たとえばこれらの説を現代人は非科学的な虚構・妄想・伝承だと断定する。だが、人類の未来に貢献するような科学的な真理の大発見には、その天才の心の奥に、非科学的なもの・夢・ロマンへの憧れがあるものだ。私たちはそれを忘れてしまったのではないか。全編を通じて著者はこのメッセージを繰り返しているように思われる。

探検小説といえば子供のころ読んだ『ソロモンの洞窟』を思い浮かべるのだが、この作品はそこまでのエンタテインメント冒険譚ではない。また、作者のメッセージはぼんやりとしてお説教調ではない。2005年から2009年までの間に「文芸界」で発表された短編を統合した作品である。4年間の連作とはいえ、短編同士のつながりに無理なところはない。それは著者がもともと統合を前提にして練り上げた構想によるものだからなのだろう。

でも、ラストまで読んでいって、まとまりのある落ち着きが感じられなかった。それはいくつかのなぞめいた暗示………三上が歌っていたといわれる「スラマット・ジャラン」、そこにある「イタリアの秋の水仙」、これが「春歌」であるいわれなど………あるいは「笑い男」を明確には読み取れないという苛立ちが残ることである。また唐突に?紛れ込んでいる毒入りカレー事件の小説的狙いはなんなんだろう。そして著者はこのラストシーンを大団円として表現したかったのか。それを迎えた語り手である村上三六の息子の内心はなにを感じたのだろうか。さらに言えば、肝心の三上隆の人物に魅力が感じられず、彼よりは最終章で突然登場する須永女医(実はチベット人)を面白いと感じるのだが、どうしてなのだろう。

読み手がどう受け止めるかの問題である、との解釈はあろう。
あるいはサリンジャーの『笑い男』、コンラッドの『闇の奥』を読んでおくべきだと示唆する人はたくさんいるだろう。

しかし、とにかく、そこまで付き合いきれない私はどう受け止めていいのかわからず、闇の奥に立ちすくんでしまった。

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この記事へのコメント

川原誠也
2019年04月05日 16:46
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2019年04月05日 16:46
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