吉村昭 『桜田門外ノ変』 史実を丹念に積み上げ、桜田事変の実相に肉薄する歴史小説の傑作

画像 「桜田門外の変」とは安政7年(万延元年・1860年)、雪降る江戸城お堀端で水戸藩士たちが井伊大老を襲撃し暗殺した事件である………と。それだけでなく安政の大獄、無勅許の開国など独断専行に対する制裁だった………程度は誰もが知っている著名な事件である。
先日出会った山田風太郎『魔群の通過』はその4年後の1864年の天狗党の乱であったが、このとき茨城県生まれの私は「幕末期の水戸藩とは一体なんであったのか?」との興味にとらわれてしまった。
本著は桜田事変の襲撃現場の指揮者・関鉄之助を主人公にして、その背景、顛末の全貌を膨大な史料にもとづき活写した吉村昭氏の大作である。私の知りたかったところの核心がドクキュメンタリータッチで鋭く描出されていた。

私は桜田事件が血気にはやった一部不満藩士によるヒステリックな暴挙だと思い込んでいた。ところがそんなちっぽけなものではなかった。これは新鮮な驚きだった。

私の知らない史実がこの事変の背景として積み上げられる。
ペリー来航の30年近くも前にあった、大津浜(北茨城)イギリス船上陸事件がそのひとつである。斉昭を中心とする改革派はこの原体験的脅威によって、反対派へは制裁を加えつつ、軍備強化と異国船対策に注力していく。そして、水戸藩の軍備強化対策は薩長よりはやく全国諸藩の中で抜きんでたものになった。
また、ロシアに対抗する蝦夷地の防備と開拓のため関鉄之助が下準備の密命を帯びて孤軍奮闘する叙述も加わる。へぇ、水戸藩ってこんなだったんだ!と、攘夷実践の先進性に驚かされた。
さらに利根川通行権を巡る騒動(1811)が述べられているが、井伊直弼の彦根藩とは昔より因縁の確執があったとして、暗殺の背景に奥深さを加えている。
また冒頭より、水戸藩内部の血塗られた抗争が描かれるが、これは大老襲撃後、実行藩士たちが水戸藩吏に追われるという過酷な宿命にもつながるものである。

安政5年(1858年)、大老に就任した井伊直弼は天皇の勅許をえないまま日米修好通商条約を締結、孝明天皇はこれを非難し、幕政改革を命じる勅書を水戸藩に下賜。井伊直弼と徳川斉昭との対立は相互不信、誤解も加わっては頂点に達する。
安政の大獄である。
安政の大獄といえば私は吉田松陰、橋本左内を思い浮かべるのだが、実際のところ井伊直弼にとっての本命は教科書的著名人の彼らではなかった。本著を読んで、実相は「水戸藩が朝廷と結託してすすめている倒幕工作」と誤解した井伊直弼による、水戸藩改革派をターゲットにした流血の粛清であったことを理解した。

主人公の関鉄之助はこうした背景が生んだ熱狂の尊皇攘夷論者であり、大獄を進める井伊直弼に深い恨みを抱く人物である。アメリカの圧力になすすべなく、唯々諾々としてその言い分にしたがわざるをえない井伊大老の胸のうちもわからんではないが、そんな幕閣は排除されるべきであると、幕政改革の必要性を各藩や公家たちに訴える彼らの行動はよく理解できるのだ。
TPP問題、沖縄問題も似たところがあるなぁ………などと、いやこれはアナクロであり無責任な発想かもしれん。

氏の著作では『敵討』『長英逃亡』『破獄』を読んでいる。この作品もそうなのだが、いずれも「逃亡者」の物語である。当然に追うもの追われるものが登場するが、氏の姿勢は人物を善・悪、正・邪、勝・敗の尺度で量らないことに一貫して厳格だ。「逃亡者」は時流に逆らって自分を貫こうとする情念の持ち主であり、その超人的情念が抗しきれずに燃え尽きる。氏が描くのは個人の裁量を超えたところにある、非情な時の流れの重圧感である。
高野長英を除いて全て歴史に埋もれた無名の人物たちだ。氏はその痕跡を探り当て、その人生に鈍い輝きを見出す。その輝きにはどこか現代を生きるものが深いところで感銘を覚える普遍性がある。
この吉村昭氏のまなざしにあらためて敬服する。

水戸藩の尊王攘夷論は日本史を動かす理論として展開をはじめるのだが、それは桜田門外の変を実行したものたちによる全国行脚の遊説活動があったからに他ならない………と私には思えた。『桜田門外ノ変』の後半三分の一は事変後、幕府ばかりでなく、水戸藩からも追われる鉄之助の逃避行が丹念にたどられる。飢え、寒さ、病魔。彼は必死の逃亡を続けながらも、なお北陸、中国、四国、九州の各藩へ工作活動を試みようとする。感情は語られず、淡々と過酷極まりない事実を積み上げるだけの叙述には鉄之助の一徹さと無念の思いがにじみ出て哀しい

桜田門外の襲撃は、金子孫二郎、高橋多一郎という冷静沈着なリーダーが薩摩藩と手を組み、薩摩藩士3000人を京に集めて朝廷を固め、東西相応じて幕府改造を断行する大規模な作戦であり、緻密に周到に準備された戦闘行動であったことがよくわかった。なにしろ各地を実際に訪ねた著者が膨大なデータを分析した上での詳細な叙述であるから説得力がずば抜けている。「所詮フィクションだろう」などと疑問が起こる余地はない。私は歴史に「もしもこうだったらこうなったかもしれない」などと空想するたちではない。ところが「襲撃は完璧に成功していた。だからもし薩摩が動いていたら幕末史もかわっていたろうに」と想像を楽しくさせてくれるほどの迫真のストーリー展開だ。

読んでいてこちらも神経を逆なでさせられる襲撃直前の緊張、そして襲撃シーンが凄い。金子、高橋の首謀者は京で薩摩との連携、関鉄之助は現場に潜んで襲撃の指揮をとる、実行者は水戸藩士17名と薩摩藩士1名。赤穂浪士の吉良邸討入り、荒木又衛門の鍵屋の辻など集団の剣戟は時代小説ではおなじみだが、これほど徹底したリアリズムで血みどろの激闘を描いたものは読んだことがなかった。おそらく真剣での立会いなど経験したものはいなかったろう。切るというよりも体ごとのぶっつけあいとするのがピッタリの激突だ。文字通りのつばぜり合いに指をおとし、耳がそがれる。闇雲だから同士討ちもおこる。

彼等には約束事があった。重傷をおったものは自刃。軽傷のものは幕府に自首して井伊直弼討取りの意義を述べ、用意した「斬奸趣意書」を提出。無傷で現場から離れることができたものは京へ向かって潜行する。結果、討ち死1名、自刃4名、深手による死亡3名。死を覚悟したとしか言いようのないこの約束事は、正気を失った殺し合いであったにもかかわらず、ほとんどが守られた。襲撃の具体的手順も決められた役割どおりに確実に実行できていた。大義に殉ずるという精神が恐ろしいまでに貫徹していた死に物狂いの集団だったのだ。振り返れば、熱に浮かされた一瞬の狂気にすぎないのだが、読むものを彼等の心情と共振させ、やむにやまれぬ大和魂とはこれかなどと、その気にさせるのは吉村昭氏の筆力であろう。

西南雄藩による明治新政権の樹立のなかでその理論的根拠となったのが尊王攘夷論である。ところで「尊王攘夷論」を体系として整理したのは水戸学であった。列強の侵略を目の当たりにしてこれに対抗する軍事力を備えるとともに、朝廷という権威の下に諸階層を束ね、統一国家として幕藩体制を再構築しようとする理論である。その実践として水戸藩主・徳川斉昭の国防の強化を含む藩政改革があった。歴史の中でもっと浮上してもよかったはずの水戸藩が皮肉なことに、幕府からも、朝廷からも敵視されたあげく、有為の人材はことごとく抹殺され、歴史に埋もれてしまった。「幕藩体制再構築」のための尊王攘夷論を「倒幕」という錦の御旗に、コペルニクス的な転回をなした西南雄藩に対して、純血のままにむしろその呪縛に囚われたのが水戸藩である。水戸藩そのものの存在が内包していた[
『御三家」としての限界、それが水戸藩の悲劇であった。それはそのまま主人公・関鉄之助の悲劇だったのだ。

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この記事へのコメント

吉村昭研究会
2011年12月04日 18:50
映画をよく分析されています。今年は現役作家でもあるかのような活躍でした。今後とも宜しく御願いします。
なお、映画・小説の題名は『桜田門外ノ変』です。
吉村昭研究会・桑原文明
799-1322 愛媛県西条市国安314-2
℡・FAX 0898-66-1556
メール bunmei24jp@ybb.ne.jp
吉村昭資料室 http://www.geocities.jp/bunmei24jp/
2011年12月04日 20:37
吉村研究会さま、お目にとまり光栄です。小生幕末の水戸藩事情をまったく知らなかったもので、非常に興味深く読みました。また吉村昭氏の著作を読むたびにその著作姿勢にいつも感服しております。そういえば今年は震災のことで氏の作品が驚きをもって読まれた歳でありました。ご指摘のところは訂正しておきます。ありがとうございました。
2012年04月04日 00:04
レビューにひかれて、読みました。
「水戸藩」について興味をもついい機会になりました。歴史の流れを変える事件の首謀者を出しながら、当の革命時にはまったく埋もれてしまった雄藩。とても興味深いです。
2012年04月06日 22:07
さっとさんコメントありがとうございます。
新刊で伊東潤という作家の『義烈千秋 天狗党西へ』がありますね。読んでみようかと思います。山田風太郎の『魔群の通過』は楽しめました。
水戸天狗党、ちょっと早すぎた青年たちだったのかもしれません。

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