三浦しをん 『舟を編む』 ライトノベル風だが一気読みをしないで、辞書を片手に楽しもう

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楽しい仕掛けがいっぱいあるぞ。ライトノベル風で一気読みはできるのだが、それではあまりにもったいない。辞書を片手に寄り道しながら、言葉の世界を逍遥しましょう。
玄武書房に勤める馬締光也。営業部では変人として持て余されていたが、人とは違う点で言葉を捉える馬締は、辞書編纂部に迎えられる。新しい辞書『大渡海』を編む仲間として。定年間近のベテラン編集者、日本語研究に人生を捧げる老学者、徐々に辞書に愛情を持ち始めるチャラ男、そして出会った運命の女性。個性的な面々の中で、馬締は辞書の世界に没頭する。言葉という絆を得て。彼らの人生が優しく編みあがられていく………。しかし、問題が山積みの辞書編集部。果たして『大渡海』は完成するのか………。
「辞書」あるいは「辞典」とのつきあいは本を読み始めたときから現在までだから相当に古い。最近では三省堂・電子辞書版「スーパー大辞林」をもっぱら愛用している。百科辞典もパソコン用の日立デジタル社製「世界大百科事典」。類語辞典もちょっとした言葉ならシソーラスのデジタルが便利だが、電子辞書ではない書籍のものなら講談社の「類語大辞典」はよく使っている。最近の三省堂「てにをは辞典」もアイデア賞もので、なるほどと感心しながらの使い道がある。

三省堂「新明解国語辞典」が発売された時に宣伝が上手だった。それにつられて買って、見た。
「恋愛」の語釈を
「特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒にいたい、できるなら合体したいという気持ちをもちながら、それが常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態」
と表していた。辞書とは論理的収斂だと思っていたところ、どこか感覚的であり、大胆にも主観を先行させている。これまでにはない面白い辞典だなとちょっとビックリだった。それでいて、ズバリと本質をついているではないか。
「合体したい」という表現も変っているなぁ………と。そこで「合体」と引くといろいろあって、中に
「性交のこの辞書におけるえんきょく表現」
とあった。
なんだ!こんなのあり?辞書編纂のタブーじゃないの、もしかしたら婉曲なジョークかと楽しい思いで読んだものだ。
さらにまた恋愛は「かなえられない」のが常態としている、この著述の責任者は失恋ばかりの人だったに違いないなどと余計な想像までした。
ちなみに三浦しをん『舟を編む』はここで恋愛を「異性」に限定したことに疑問を投げ、「大渡海」は「同性愛」も恋愛として認める新語釈を試みている。そのうんちくが愉快なやりとりのシーンになっていた。

「新明解国語辞典」については結論から言えば「恋愛」という言葉を「調べるため」に引いたのではなく、楽しく読める辞書、このうたい文句である魅力の核心部分「言葉の本質に迫った語釈!」「数多くの使用例から帰納し、深い内省と鋭い分析を加え、一層磨きがかけられた語釈!」を確認したかったのだ。このケースカバーの宣伝文句も凄い、「深い内省」だとさ。辞書編集って面白いなぁ。

私は言葉にある重みを意識しているほうなので、自分の思っているところのものを他人に伝えることがいかに難しいことかと、つねづね感じている。ビジネスの上でもそうなのだが、むしろ親しいもの同士、親子・夫婦のほうがもどかしさを痛感する場合が多い。文字にすればあとあとあまで残るのだからなおさらである。だからピタリとあてはまる言葉に気がついたときにはおおいなる喜びがあるものだ。
言葉をそのまま言霊に直結させるのではないが、使い方ひとつで取り返しのつかないハメに陥る時だってある。ネットや携帯でのやりとりには怖いところがあるものだが、沖縄防衛局長も「犯す」の語彙に「深い内省」をもってあたるべきだったのだ。ことほどさように、精妙なる言葉の働きには畏れ多いところがたくさんにある。

『舟を編む』、表紙帯とカバーをはずしたところの表紙はコミック漫画であって、馬締→まじめ→真面目の駄洒落を延々とし、不器用な真面目青年が恋を告白するまでのもどかしさというまったくの定番シーンにうんざりするところもあった。いまはやりのライトノベルってこれかと、おもいきや、ムムムッ。精妙な言葉の世界を軽妙なタッチで描いた正調のガイダンスではないか。

言葉は広く深く多様に変化している海だ。身近にありながらも広大な未知の世界であり、ちょっと踏み込んでいくと、そこには驚きがあり、発見があり、神秘がある。だからどのような権威ある辞書の語釈であっても絶対ではない。………とぼんやりとは感じていたが、この作品を読んでいるとその微妙なところに向かって、それぞれに奇人変人ともいえそうな個性的ヤカラがごく普通の人をまじえて、具体的にしかも奇妙奇天烈に突っ込んでいくものだから、なんどもハタと膝を打ったものだ。なるほど辞書編纂というのはこういう仕事であったのか。先ほどは冗談めかして述べたところだが「言葉の本質に迫った語釈」「数多くの使用例から帰納し、深い内省と鋭い分析を加え、一層磨きがかけられた語釈」これは『舟を編む』の人たちの目指していたそのものであったし、辞書編纂の極致であることがよくわかった。

言葉を愛するものたちが「大渡海」の完成に向け、情熱を燃焼させる。幾多の困難にもめげない。世にあって隠れたヒーローたちの熱い思い。NHKの「プロジェクトX」型、感動もの企業小説の一種といってもよい。ただし、障害があっても深刻に悩むことはなく、軽い乗り乗りの気分にあふれ、スリリングで爽やかである。本物のユーモア小説である。才気煥発の三浦しをん、いまや絶好調といったところか。

「辞書」は「言葉という大海原」を航海するための「船舶」であり、その辞書を編集するものたちで「舟を編む」との意味を持たせるタイトルである。どうして「船」ではなくて「舟」なんだろうね。「舟」は竿や艪や櫂で漕ぐ小型という一般的解釈がある。
スーパー大辞林によれば
「多く小型のものを『舟』、より大きなものを『船』と書く」
とある。
大海原を行くのなら少なくとも帆船級が必要だと思うんだが、「船」ではない。
なぜだろうかと考える。
「編む」のほうに重心をかけたのだ。
「編む」の語釈を「新明解国語辞典」に頼れば
「糸・竹・針金・髪などを互い違いに組み合わせて、形あるものをつくる」
とあった。
(つらつら見れば<形あるものを作る>なんて表現を初めて発想した人はとても可笑しい人だね)
編むとなればこれは手作りだ。
編むことで作られた水をわたる乗り物といえば、エジプトのパピルスを束ねた舟、動物の皮革で作られた皮舟、あるいは材木を縄や針金で編んだ筏である。
となればこれは「舟」であって「船」ではない。
しかも大海原に「舟」を人間の力だけで漕ぎ出だすという冒険心とロマン。
なんてったって、言葉の大海は古代までも遡る。
だから、不沈の航空母艦よりは葦舟を浮かべるのがふさわしい。
いや、むしろ辞書に内在する不確実性という危なげな雰囲気を象徴しているのである。

ここは三浦しをんにして考えに考え抜いたところなのだ。

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この記事へのコメント

甲山筆夫
2012年01月04日 21:20
ご無沙汰しております。
明けましておめでとうございます。
このフォーマットが私のフログのメインページであることと、三浦フアンであることて、コメントをかきました。
よっちっんの活躍としをんの裏切らない活躍を祈念します。
今年もよろしくおねがいいたします。
2012年01月05日 15:05
甲山さん、あけましておめでとうございます。
「ゆっくり行こう」は2009年の夏までで、以降更新されていないようで、どうされたのかと思っておりました。お元気の御様子で安心しました。
三浦しをんは父親が千葉大学で古事記の研究家で教授をされていた折、つき合いがあり、直木賞受賞作を初めて読みました。なかなかの才媛だと思います。
最近はウォーキングも億劫になってさぼっておりますが、引き続きよろしくお願いします。
甲山筆夫
2012年01月05日 20:00
サラリーマン風情のかたわら、小説を書いていました。
若干のハンデのある次男をモデルに、青春小説を。三月
には、手書き清書が完了します。
二年がかりで原稿用紙100枚以上の小説を書く、意外に
ちょっとしたプロジェクトです。自身四作目、快作の手
応えを感じております。もちろん、自己満足です(笑)
2012年01月06日 22:48
甲山さん、そうでしたね。創作活動に打ち込んでおられたのですね。
小生には手が出ない分野です。よい作品の完成を期待しています。頑張ってください。

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  • 書籍「舟を編む」好きこそものの上手なれ

    Excerpt: 書籍「舟を編む」★★★★オススメ 三浦 しをん著 , 光文社、2011/9/17 ( 259ページ , 1,575円)                     →  ★映画のブログ★  .. Weblog: soramove racked: 2012-02-13 07:29