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help リーダーに追加 RSS 司馬遼太郎も知らなかった芹沢「鴨」の由来 茨城のむかしむかし大昔15

<<   作成日時 : 2005/07/26 23:52   >>

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『常陸国風土記』行方(なめかた)の郡
(倭武<ヤマトタケル>の天皇<スメラミコト>)更に御輿を巡らして現原<アラハラ>の丘にお行きになり………この地を行細<ナメクハシ>と言うべし」とおっしゃいました。このため後世に行方とよびならわします。その丘は見晴らしがよく天皇は現原となづけられました。この丘をお降りになって大益河<オオヤガワ>においでになり、船に乗って上りましたときに、棹梶<サオカジ>が折れてしまいました。そこでこの河を無梶河<カジナシガワ>と言います。ここはすなわち茨城・行方の郡の境にあたります。棲息する魚のたぐいは多くて書き表せません。
無梶河<カジナシガワ>より郡境に至りました時、鴨が飛び交っておりました。
天皇が射られるやいなや鴨は弦の音に反応してただちに堕ちてきました。それゆえこの地を鴨野といいます。

無梶河<カジナシガワ>は現在の梶無川。鴨野は玉造町の加茂地区で鴨の宮がある。

芹沢鴨は水戸学を学んだ、「尽忠報国」を旨とする勤王の志士である。天皇の威光にひれ伏すこの鴨にこそ、自分の身を犠牲にしても帝のために尽くそうとする高い志を見たに違いない。そしてこの鴨になぞらえ、名乗りを「鴨」としたものとわたしは推定するのである。

水戸学の普及に藩校「弘道館」を中心として水戸藩各地には郷校が設置されていた。玉造にも文武館という郷校があって芹沢村から通う道筋には梶無川があり、少年はそこに飛び交う鴨を見ていたに違いない。

さらに一歩進めて芹沢鴨はこの「常陸国風土記」の故事を承知していたかを検証してみよう。
芹沢鴨には潮来の郷校(延方学校)をアジトに天狗党の資金強要活動をしていた時期がある。当時ここには水戸藩主徳川斉昭に仕えた宮本元球という儒学者が在籍していた。宮本元球は考証学者でもあり、いくつかの文献を残している。たとえば「常陸誌科」などには「常陸国風土記」の考証研究も含まれている。芹沢がこの学者の謦咳に接したと考えて無理はあるまい。

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司馬遼太郎も知らなかった芹沢「鴨」の由来 茨城のむかしむかし大昔14
司馬遼太郎『新選組血風録』の「芹沢鴨の暗殺」にはこう書かれている。 この男の生地は、常州芹沢村である。郷士の子で、本名は木村継次といったらしい。芹沢鴨は、脱藩して風雲の中からの名であった。なぜ、鴨という奇妙な名をつけたのかはわからない。一字名をつけたのは、当時、いわゆる志士のあいだで流行していたからであろう。 司馬遼太郎はこのように「鴨」と自称した由来を「わからない」としている。芹沢は新選組の中でも凶暴な男として悪名だけは高いが、近藤、土方、沖田などと比べればはるかにインテリであって司... ...続きを見る
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