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元和8年(1622)2代将軍徳川秀忠は上野忍ヶ岡の地を喜多院(現埼玉県川越市)の住持天海の願いにより寺地として与えた。1625年(寛永2)天海は比叡山が京都の鬼門(北東)にあたるのに対して、寛永寺は江戸の鬼門にあたり東叡山と号して,江戸城鎮護と国家安穏長久を祈願し、一寺を創建した。また慶安年間には創建時の年号を取り寛永寺の勅号を与えられた。(他に寺号に年号を名乗っているのは延暦寺と仁和寺のみ)将軍家のほかに御三家や諸大名が諸堂宇を寄進し、一山36坊の大伽藍が出現した。47年(正保4)に後水尾天皇の第3皇子守澄法親王が入山し、55年(明暦1)に輪王寺宮と号して以後、代々の輪王寺宮が寛永寺住職となった。歴代の輪王寺宮は日光門主・天台座主となって、関東のみならず全国の天台宗寺院を統轄するに至り、幕府の宗教政策を支えた。 1868年(明治1)5月15日彰義隊の戦いで堂舎の大半を失ってしまったが、五重塔・開山堂・清水観音堂などが現存し、その後再興された根本中堂などがある。境内の大部分が73年上野公園となって以来、博物館・美術館・動物園などが設立されている。 上野という地の歴史に思うこと 徳川家康は徳川一族による永続的国家支配を希求した。寛永寺、上野東照宮の造営はその精神のシンボルであって、霊域とされたのがこの上野の地であった。そして幕末、大政奉還をした徳川慶喜が寛永寺に蟄居したところから彰義隊が結成され、官軍に破れたのもまた上野であった。寛永寺の堂宇はほとんどが炎上、この上野戦争を機に徳川幕府は決定的に崩壊する。上野東照宮の三祭神が祖霊・家康であり、ラスト将軍・慶喜(もうひとつは吉宗)であることを知って、ますます徳川の時代と上野の縁に感慨を深くする。そして倒幕のリーダー西郷隆盛がいまや上野の森のシンボルとして、徳川幕府の創生と崩壊の歴史を睥睨しているのだ。 大きな地図で見る |
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