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zoom RSS 渡部伸一郎 『遠くへ』 知の迷宮回廊に点在する自画像の謎

<<   作成日時 : 2011/09/20 22:03   >>

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著者の渡部伸一郎君は新宿高校の同期生である。今年の4月、同期会の席で彼が
「今、小説を書いている。面白い作品だと思っているんだが、出版したら読んでね」
と、どんぐり眼をぎょろりとさせて近づいてきた。7年も前になるだろうか、彼の著書『わが父 テッポー』の感想を述べたことがあった。彼にその記憶が残っていたのか、顔を合わせたついでに声をかけてきたのだろう。特別親しい付き合いはない。なにせ彼はいまだぼくの名前を正確に書けないぐらいである。
頭がずば抜けて切れる男だったにしても「面白い小説」を書けるほど世間擦れしているとは思ってもいなかったし、自称ひねくれものの言質である。実際手にしてみると一種のエッセイだった。ところがどっこい、小説以上にミステリアスで、面白い作品であることには間違いなかった。魔法ともいえる彼のいざないに冒頭から引きずりこまされた。
やはり渡部伸一郎、ただものではない。


飾り帯には
虫愛ずる俳人 初のエッセイ集
ゴビ砂漠のドルカディオン、アラン島のボーダーコリー、セントヴィクトワールの麦畑………。風の音に誘われるまま、より遠く、より古きを尋ねて歩く。しなやかな知と好奇心が躍動する闊達自在の諸国遍歴
と、紹介されているようにこれは伸一郎君自身の旅の記録でもある。

しかし紀行エッセイだけではない。
彼自身の豊穣な知見と研ぎ澄まされた感覚の堂々とした披瀝であり、いっぽうでは繊細な感性の揺らぎ、あるいは魂の告解というべきが妥当と思われる節も随所に見られる。異色の随想録である。
そこはかとなくかきつづったものではない。できるだけ多くの人に読んでもらいたいとの気迫がこもり、また文章の巧みさは驚嘆すべき域に達している。

ぼくは特に「アラン島へ」「パブ酒」の<アイルランド>と「パリの屋根の下セーヌが流れ、北ホテルはしぐれていた」「パリのヘミングウェイ」の<パリ>を逍遥する伸一郎君はこれまでイメージしていた人柄とぴったりで爽やかだった。 「セントアイヴィスまで」もよかった。

彼は風だ。断崖の荒野を、海浜を、川面を、町の片隅をそっと吹き遊ぶ風だ。彼の言う「旅」とは「旅行」ではない。旅情という言葉がある。ぼくが思うに「旅」の愉悦とは「旅情」にふけることにあるようだ。

その地は天地創造に始まる宇宙力学の結晶として存在しているのだろう。彼は生き物はもとより生命のないものにも不易流行の相を観る。そしてそこには長い長い人間の営為が沈殿しているのだ。栄枯盛衰の起伏が連なり、喜怒哀楽の陰影がどこかに跡を残している。そしてこの地に特別な思いを寄せる彼の知人たちがいる。知人は彼の実際の知り合いでもある文化人だけでなく、その地を舞台にした小説家、映画俳優あるいはロマンの主人公である。彼はその知人たちの感傷に共振していく。
言い換えれば、彼には、当地にゆかりのあるあらゆる痕跡と思念が知識として蓄積されている。知識はそのままでは整理されたただのデータに過ぎない。データを叙情に昇華する。データを自分のものにした彼の感性が精妙に練り上げて完成させた空間。彼がみるのはこの時空を超越した情景なのだ。その世界にたゆたうのが旅情であり、それこそが本物の旅だ。彼はこの旅の真髄を語っている。真髄を大勢の他人にわかってもらうことは容易ではないのだが、そこを文章という表現でなしとげる。まさに<アイルランド><パリ>にはこのエッセンスが凝縮されている。大衆娯楽小説ばかりを読んでいるぼくが言うのはあてにならないかもしれないが、最近ではめったにお目にかからない名文である。
面白いことには、彼は歴史の深いイタリアや中国旅行で感興をそそられないようだ。イタリア・中国の、過去のではなく現在の文化・生活様式が彼の描く旅情世界のピースとしてしっくりこないからだろう。

彼は告げる。
旅はたった数時間であっても、自分の町でも成立する
逆説的だが、箴言である。なるほどそうかもしれない。
ただ凡人であるぼくにとっては到底不可能な知識の集積と類ない感性の作用であって、旅はやはり観光旅行でしかない。
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ところで、この著書に魅了された読者がアラン島へ出かけてもおそらく期待はずれになる。
この本の見返しに一枚の写真があるので注目してほしい。
津波のあとの瓦礫の山と立ち枯れた草むらの間で、飢えた野良犬がでっかいネズミの死骸をくわえている………としか見えない。
だがこれはおそらくアラン島の実写なのだ。観光客の見るこの実景と豊かな知性と感性がとらえたあの情景(荒涼とした風景と人間関係)では天地の差がある。
(それにしてもうまい写真を載せたものだ。)

「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり………」
「夏草や兵どもが夢のあと」
どうしてもこの先人の言は伸一郎君の旅へ向かう姿勢のイメージに重なる。
そして「無常観」。この世の無常を透徹した人間にそなわる孤高を感じるのだ。

日本には古来、「漂泊民」により伝えられた文化の領域がある。いや、最近読んだ隆慶一郎の伝奇時代小説『吉原御免状』の受け売りである。漂泊民とは世俗の縁を一切切り捨てたもので、制度による庇護がないかわりに束縛から免れ、自由に諸国を往来していた。
おのれ以外の主を持たず、何人にもその心身を縛られない自由の地を理想としていた
この漂泊のイメージも伸一郎君と重なるのだが、ただこの文化は大衆文化であって、高度に知的な文化、洗練されたセンスとはかなり違うから、一緒にしては失礼にあたる。

紀行ではないがもうひとつ、記憶に残る一節に森芳雄画伯との交流を綴った「二人」がある。劇的な出会いがあって、心身の病に落ち込んでいた彼を復帰へと導いた人である。恩人であり絵画の師父である森画伯への思慕、憧憬、謝恩の心情が切々として伝わってくる。その哀しく美しい追憶に心洗われる思いがした。

この著書で彼は多様な顔を晒すのだが、ぼくはこういうイメージが本当の伸一郎君の素顔だと思いたい。

博覧強記とは伸一郎君のためにある言葉なのではないか。しかも生半可なものではない。板についた広範な知識の大集積には驚嘆させられた。一流の才人と名高い丸谷才一だってこれほどの蓄積はないのではなかろうか。ウンベルト・エーコの作品が百科辞典小説と呼ばれたときがあった。百科辞典並みの膨大なウンチクがあるからそう呼ばれているのかと思っていたら、間違いで、百科辞典を傍らにおいて引きながら読まないと理解できないものだということがわかった。
『遠くへ』には人物、蝶々や野鳥をはじめとする動物、植物、土地、気候、風土だけでも知らない事物が散在していた。出来事、習慣、風俗となればなおさらである。感興のおもむくままに百科辞典も引きました。土地にあってはグーグル地図をグルグルまわして確認しました。有名人物にしても隠されたエピソードが満載で楽しむことができた。

旅以外での好奇心が向かう領域も恐ろしく広く深い。蝶々の採集、文学、俳句、絵画、陶芸、演劇、映画、音楽と広範な文化活動へのアプローチは趣味をこえてそれぞれが並み一通りのレベルではないのだ。彼の周囲には同好の一流文化人との交流の場がある。彼の蓄積された知識が拡散する場であり、あらたな知識を吸収する場にもなっている。

恬淡の伸一郎君に「欲望」があるとすればそれは知識欲である。次から次へと好奇心は連鎖し、森羅万象を知り尽くするかにみえるその貪欲さはブラックホール並みだった。まさか神になるつもりではあるまい。

膨大な知識の集積とそのマシンガン並みの開陳に圧倒させられ、ぼくは知の海に溺れそうになる。
やがて「牛とモーツァルト」「大津皇子」「国見」「三輪山」「長岡京・都市サイズ」に至り、今度は統治する世俗世界を見下ろす、王の気分を味わおうと高みに上る。傲岸不遜、鼻持ちならぬ奴と思う読者もいるだろう。旅情が心の深いところにしみこんでいたそれまでの紀行とは異質な気分があらわれている。蓄積した知識を確認するための、あるいは追体験するための旅行に変質し、紀行文は博覧強記を得意げに披瀝するため手段と変貌する。
なにかへんだ………と、ぼくは割り切れない違和感に囚われるのだった。

ところで彼は自分のことを「ひねくれ者」であり「偽悪的ポーズで正面を向かずに逃げている」者だと言っている。悪を装うほどの善人ではあるまいが、むしろ露悪趣味の浅からぬところがある。露悪家のひねくれ者が斜に構えての言うことだ。到底そのままには受けとめられない。また「名門の御曹司」と彼の背中にはべったりとしたレッテルが張られている。渡部伸一郎著『わが父 テッポー』を読めば詳細を知ることができるが、彼はこのDNAから逃れることができない。世間知らずのオボッチャンの茶目っ気からでた戯言だと言ってもあながち見当ハズレでないところがある。

「正面を向かずに逃げている」とある。智に働けば角が立つ。伸一郎君はその知見でもって世の中に何らかの干渉を試みるという低俗の野心はない。むしろその逆の立場を堅くしている。世俗の干渉から逃避し、しがらみの窮屈さを回避し、不条理な社会の枠組みから飛翔する。自由を求める精神が彼である。7年前の『わが父テッポー』を読んだ時には不条理と折り合おうとする伸一郎君を見たつもりだったが、今は折り合うのをやめたようだ。そこにぼくは「漂白民の孤高」を感じるわけだが、もしかしたら秘めた「高等遊民の悦楽」があるのかもしれない。われわれサラリーマンは長いこと俗界の階段をなんとか上ろうしてきたものだ。だが彼の場合は精神世界での高みを目指している。
かくして渡部伸一郎、一言で言えば実にミステリアスな人物なのである。ミステリアスな才人が自叙したこの作品だから、いたるところにトリッキーな叙述がある。その最たるものが「あとがき」だ。読者はまず「あとがき」から読まれることをお勧めする。含意はどこにあるのだろうかと深読みしたくなる、実に謎めいた「あとがき」だからだ。

閑話休題

ありのままの自然や文化の遺跡を加工して、あるいは付加価値をつけて観光資源とする。少数民族を保護して観光資源とする。彼はこの構造を告発している。 「世界遺産」「少数民族」はこのエッセイ集では数少ない直接の文明批評だ。ところでこの構造は政策として観光化を進める少数層と食うために観光化に妥協して生活様式をかえた多数層でできている。彼は二つの層を区別しない、むしろ多数層に対して冷酷なそぶりをみせて、神の視座から一刀両断にしている。文章の勢いも激して、自分のどこかにある抑圧された心情のカタルシスだけで書かれたように見えてしまう。衆愚に自分を加え、自他共に笑い飛ばす、思い切りのユーモアが伸一郎君の「らしさ」ではなかったか。

「ドルカディオンとノミオン」「オウゴンテングアゲハ」「世田谷の蝶」病膏肓に入る。ここまで蝶々収集に熱くなっていたとは知らなかった。もちろんその薀蓄は専門の生物学者並みにすごいのだが、追っかける楽しさが読むものにビンビンと伝わってくる。大草原を嬉々として駆け回っている姿が目に浮かぶようだ。
自然破壊だとする周囲の冷ややかな視線を前にして
虫気違いは殺戮者、収集者、追跡者、観察者、賛美者と進化する。ぼくはいまや賛美者寸前である
と啖呵をきるところが面白い。
ヒロヒトだって、ロスチャイルド、ロックフェラーだってコレクトは王侯貴族の最良の趣味だった
といかにも彼らしい。
無邪気な、一切の衣を脱いだ裸の伸一郎君がここにあった。

またこの作品では通奏低音のように「死」のモチーフが一貫して流れている。哲学者は人間の生死について深い考察にいたるものだ。まぁ哲学者でなくともわれわれの年代では死ぬことの周辺をあれこれ思うことはあたりまえのことかもしれないが。
彼は自分の死を見つめながら、死をバネにして生き急ぐ。
やがて「活力を失い死んでゆく。すべてのことが億劫になってくる。」無理してでもトライし満足するために動く。「この歳になると時間との勝負である」。
彼が「物事を理解する」のには「学習」ではおぼつかない。「体験」こそ要である。そこで「旅」に向かうのだ。できるだけ「遠くへ」と死と駆けっこをしながら旺盛な知識欲を充足させている。
「マージャンは頭と指を使うから長生きのためにはすこぶるいい」なんて本気になって言う奴がいる。論外だ。
脳をフル回転、全身を働かせ、しかもやる気マンマン。こういう人こそ絶対に長生きする。

そして他人の死。ヘミングウェイ、ロレンス、ジャコペッティ、永井荷風、森鴎外、太宰治、夏目漱石、正岡子規、ゴーギャン、ゴッホ。
伸一郎君はこれら文化人の死を見つめている。その人たちが残した文化の価値を考察するのではなく、それぞれの生き様に思いを致した彼がそれぞれの死に対する感傷を語っている。
中で強烈なインパクトを受けたのは画家の二人、ジャコペッティとゴーギャンだ。

ぼくはジャコペッティを知らなかった。ただ、しばらく前に高村薫の文芸ミステリー大作『太陽を曳く馬』を読んでいた。そこには伸一郎君が関心を持ったジャコペッティ像と似たようなテーマがあったので、画家としての狂的苦悩は理解できる。絶対真を描こうとして虚無の深淵に立ち尽くす青年画家。青年画家の実像を言葉で説明しようとしても説明できない主人公の焦燥。このイメージが重なるからだろう、伸一郎君がジャコペッティに肉迫していくシーンには鬼気迫るものがある。

もっと驚かされたのがゴーギャン論である。
ゴーギャンだってぼくはよくは知らないのだが、伸一郎君にとってゴーギャンはかくもグロテスクなものなのかと。この思い入れにはただならぬものがある。
二度読みすると、出来の悪い息子を世間に向けてこきおろす親の哀しさ、そんなようなところが垣間見えてきた。
三度読む………。ゴーギャンの自画像を眺めていたつもりが、実は酔っ払って自分の鏡像を見つめていたのではなかろうか。
いずれにせよ、生死を考察する一連のテーマの山場であり、ミステリアス伸一郎のミステリアスな急所がここにある。見逃せない一篇だ。

知のラビリンスを彷徨いながら、ところどころ回廊に展示された伸一郎君の自画像を鑑賞してきた。
堪能した疲労感で出口に立つと最後の自画像を見ることができる。「あとがき」である。

生真面目が
おどけて あとの
照れ笑い。

洒落たミステリーのドンデンガエシに緊張がほぐれ、ホッとする。

最後に
どこから来た?はそれとして、
どこへいく?というよりも、
どこにいることをはっきりさせたかったのだろう。

そして「存在証明」を完成させた今、「ここにぼんやりとしているよ」でよろしいのではないか。

読んだよ!

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