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zoom RSS 神田川遡行 その一 柳橋から水道橋 平成26年7月9日スタートする

<<   作成日時 : 2014/07/17 22:42   >>

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神田川を河口から水源まで遡ろう
河口は隅田川(大川)に開けている。
地図には隅田川から大洗堰まで表示されている。

神田川・神田上水
江戸の上水道。井の頭上水ともいった。玉川上水とともに江戸の二大水道として,江戸の武家・寺社・町方の生活を支えるのに大きな役割を果たした。水源は武蔵野の井の頭池で,途中善福寺池から流れ出る善福寺川,妙正寺池から流れ出る妙正寺川の2流を合わせ,淀橋で玉川上水の助水を入れた。井の頭池から江戸に入る目白下大洗堰まで5里足らず,さらに関口水道町,小日向水道町,金杉水道町の3町を通り水道橋に至る。ここまでが開渠で水元と呼ばれる。ここから掛誇で神田川を渡し江戸城郭内に入る。これ以遠は江戸内と呼ばれ,暗渠で郭内から江戸の町々,寺社に配水された。開設は徳川家康の命を受けた大久保藤五郎忠行が,家康の関東入国に先立ち開いたとも,内田六次郎が慶長ころに開いたとも伝えられている。(平凡社世界大百科事典)

1 柳橋
柳橋より上流(浅草橋)を眺望
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もともとは神田川が大川に流れ込むところにあるので「川口出口之橋」という名称であったが、ほとりに柳が植えられていたことから、いつしか「柳橋」と呼ばれるようになったということである。元禄の頃は隅田川の船遊び客の船宿が多かった。その後、天保年間には天保の改革の弾圧から深川芸者が流れ込み、船宿が料亭をかねるようになって芸者街と変容した。明治以降は花街として新橋と共に東京を代表する三業地(料亭・芸者置屋・待合茶屋)となった。
色気のある街だったが、今は昔。
名残がこの繋留された「屋形船」

2 浅草橋
浅草橋より下流・柳橋を眺望
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江戸幕府開府に伴い江戸の町づくりが進められ、その一環として江戸城防衛のため重要な拠点に見附門を設置した。この地は日本橋から奥州・日光・水戸へ、又、江戸の古刹浅草寺(浅草観音)へ向かう重要な道筋にあたっていたので、幕府は寛永13年(1636)神田川の南岸、今の中央区側に浅草御門を設け、警護の役人も置いて見附門としたのである。(四ツ谷、市ヶ谷、赤坂御門等と同様江戸城三十六見附の一つである。)それゆえ浅草橋を含めこの辺りを浅草見附といった。
明暦の大火(明暦3年=1657)の折、小伝馬町牢奉行石出帯刀(たてわき)は一時囚人達を釈放した。が、門の番人は脱走囚と間違え門を締め切った。このため一般市民も避難路を絶たれ、ここだけで2万人の溺死者、焼死者をだしたという。

3 左衛門橋
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古地図によると橋の北詰に鶴岡藩(庄内藩)の酒井左衛門尉の下屋敷があったことからこの地名が生まれた。
屋形船の繋留もこれより上流にはない。

4 美倉橋(かつては「新シ橋」)
清洲通りを渡す。
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柳原土手(柳原堤)
新シ橋(現 美倉橋)を渡った千代田区・中央区側の神田川沿いは柳原通りといわれ、筋違御門(今の秋葉原辺)から浅草御門近くまで土手が築かれていた。土手上には柳の木がずらりと植えられていた。昼間土手下には古着屋や古道具屋が軒を連ね人通りも多く賑わったていた。今でもこの通りは衣料品関係の店や会社が多いのはその名残だろう。

5 和泉橋
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北に藤堂和泉守高虎の屋敷地があり、橋の名はこれに由来するといわれる。藤堂藩は神田上水事業に関わっている。

これらいずれの橋も交通量の激しい幹線道路を通している。

6 神田ふれあい橋
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全景が捉えられない。足場が悪くあたかも工事現場にある臨時の設備のように見える。
この橋に密接して東北.上越新幹線の鉄橋があるがもともとこの鉄橋工事のために設置されたもので、地元の要望から一般に開放されたものだ。

7  万世橋
昔のこと。中学生だった私は都電にのってよくここまで来たものだ。交通博物館が好きだった。
神田川沿いにレンガ造りの高架橋が見える。
かつて中央線の神田と御茶ノ水間に「万世橋駅」があって、その駅舎跡が外堀通りまで続くこのレンガ造りの高架橋だ。中央線がその上を走っている。ここに交通博物館があった。今は商業施設「mAAch ecute(マーチエキュート) 神田万世橋」として生まれ変わった。
歴史の重みを実感させる堂々たる建造物だ。
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8 昌平橋
寛永年間には一口橋(いもあらいばし)、芋洗橋、後に相生橋などと呼ばれたようだが、徳川綱吉が孔子廟である湯島聖堂を建設した際、孔子生誕の地である昌平郷にちなんで「昌平橋」と命名された。
外堀通りを通し、北側のJR総武本線、南側のJR中央本線)に挟まれている。
秋葉原電気街の南東の端に位置する。
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ここから昌平坂を上ってお茶の水、水道橋方面へと向かうが、神田台地に切通しを入れた江戸城の掘割と重なって、流水面を深い谷底に見下ろすので、今までとは景色が異なる。


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安藤広重 名所江戸百景 「昌平橋 聖堂 神田川」
神田上水の余水は当初、関口の洗堰から昔からあった平川へ落とされ、小石川台地の南麓を経て隅田川へ注いでいた。この川は洪水の危険があったことから本郷台地に続く神田山を掘削して掘割を作り平川の水を小石川から浅草の南で隅田川に流れるように仕向けた。これが神田川である。

神田川がこんなに大きな川だったとはびっくりします。
恐るべし、江戸の土木工事力
下の写真と同じ構図かな?


9 聖橋
巨大なアーチ橋だ。手前に走るのは地下鉄丸の内線、聖橋の先にはお茶の水橋が見え、その背景は順天堂大学。
聖橋の南にはニコライ堂(日本ハリストス正教会復活大聖堂)があり北には湯島聖堂があることから聖橋と命名された。
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10 お茶の水橋
「お茶の水」由来
慶長の昔、この辺り神田山の麓に高林寺という禅寺があった。あるとき寺の庭よりよい水がわきでているので将軍秀忠公に差し上げたところお茶に用いられて大変よい水だとお褒めの言葉を戴いた。それから毎日この水を差し上げるようになり、この寺をお茶の水高林寺と呼ばれ、この辺りをお茶の水というようになった。

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『お茶の水橋」と「御茶ノ水駅」 書き方が違うね。
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11 水道橋
「水道橋の由来」
下を流れる神田川に木製の樋を橋のように懸け(水道管)て江戸市民に神田上水の水を供給していた。
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これがその懸樋(かけひ)だ
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必見 東京都水道記念館 江戸の水道構造の全容
アルバム「神田川・周辺散策」にて紹介




より大きな地図で 神田上水・神田川散策マップ を表示

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