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zoom RSS 神田川遡行 その六 淀橋から中野新橋

<<   作成日時 : 2014/09/26 18:11   >>

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新堀橋あたりで南北方向に流れを変えてきた神田川は相生橋付近から再び東西方向に向きを変えます。
新宿区とつきあいつつ長い距離を流れてきましたが、菖蒲橋から中野区に入ります。
中ノ橋付近が神田川全長の中間点になります。
「淀橋」「長者橋」にまつわるお話が面白い。画像

59 淀橋
まずは青梅街道を渡す「淀橋」。一説によると室町時代からあるといわれる。古い橋だけにいろいろと興味深い伝承がある。

橋の傍の案内板には新宿区による解説があるが、小滝橋の記述で触れた中野長者伝説と三代将軍家光の尊大さを重ねて面白い
淀橋の由来 
 
「淀橋」の名は、江戸時代の三大将軍徳川家光が名づけたといわれています。古くからあるこの橋は、昔は「姿見ずの橋」とか「いとま乞いの橋」といわれていたといいます。このあたりで中野長者といわれていた鈴木九郎が、自分の財産を地中に隠す際、他人に知られることを恐れ、手伝った人を殺して神田川に投げ込みました。九郎と橋を渡る人が、帰るときには姿が見えなかったことからその名がついたといわれます。江戸時代の初めに鷹狩りのためこの地を訪れた将軍家光はこの話を聞き、「不吉な話でよくない、景色が淀川を思い出させるので淀橋とあらためるよう」に命じ、これ以降、その名が定まったそうです。


この説明には江戸名所図会が差し込まれているが、水車の風情が淀川に似ているとある。また、この図を拡大してみると、当時の淀橋の賑わいが詳しく読み取れる。
淀ばしは、成子と中野との間にわたせり。大橋・小橋ありて、橋よりこなたに水車回転(まわ)れるゆゑに、 山城の淀川に準(なぞら)へて、淀橋と名付くべき台命ありしより、名となすといへり。大橋の下を流るるは神田の上水堀なり。
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淀橋 今昔

江戸名所図会・淀橋水車

青梅街道を往来する武家や町人。神田川に架けられた大きな橋、淀橋。神田川の助水堀として玉川上水から引かれた水流とその橋。手前にもう一本細い流れがあり、草葺き屋根の屋内で大きな水車が回っている。神田川から引かれた農業用水路で、ふだんは付近の人たちが水車を動力に米や麦を挽いていたという。幕末にはここで火薬の製造をしていた。淀橋の橋柱にシンボルマークとして刻まれている同心円はこの淀橋名物の水車である。

現在の淀橋と淀橋交差点
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淀橋といえば わたしは淀橋浄水場を第一に思い浮かべる。
私が新宿区の高校に通っていた頃はまだ浄水場があった。
それが新宿副都心に変貌するなど当時は考えられなかった。

立派な親柱だなと感心してよく見ると
大正14年7月の日付が入っている。
現在の橋は平成17年2月の竣工だが、大正架橋時の親柱を再利用している。

 60 豊水橋  61 相生橋  62 菖蒲橋  63 宝橋

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淀橋から川上をみれば両岸ともにビルのウラ壁面が連なって味気がない。
だが護岸壁は剝き出しのコンクリートではなく、レンガを積み重ねたような意匠は好ましい。
流れは南北から東西にカーブしていく。
区境にあった神田川だが菖蒲橋から先は中野区内にはいり新宿区の外に出る。
この間は流れ、情緒、風景とも単調である。
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宝橋から振り返りますと新宿高層ビル群が目の前に、ハッとします。
無機質な大都会でありますが手前に見える中低層住宅からは生活の臭いが立ち昇ります。

64 長者橋


山手通りを渡す。

「中野長者伝説」で知られる鈴木九郎ゆかりの成願寺の近くにあるところから「長者橋」と呼ばれている。


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「中野長者伝説」といういかにも史実めいた伝承はいくつものパターンがあるようだが、神田川に関連する噺としては最もスケールがおおきくドラマティックなのだ。
12世紀末、源義経の東下りに従ってきた熊野の神官一族がいたという。15世紀初頭、その神官の末裔にあたる鈴木九郎がこの地に住み着いた。昔から交通の要衝であったのだろう、運輸関連の商いが成功、財を成した鈴木九郎は感謝の気持ちから熊野十二権現を祀り、これが今日の熊野神社、十二社の由来となった。



寄り道 多宝山成願寺

山手通りを中野坂上方向に向かうと左手に派手に目立つ中国風の山門が見える。鈴木九郎が開山したと言われている成願寺だ。「中野長者」を大々的に売りにしているのかと思ったのだが、境内にそれらしい目につくものはなかった。
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成願寺のホームページがあってそこに触れてある。これが成願寺公認の中野長者伝説ということだ。
およそ600年のむかし、今の成願寺のあるところには、鈴木九郎という馬売りが住んでいました。そのころ、この成願寺のあたりは見渡すかぎりのススキの原っぱでした。九郎は荒れた土地を少しずつきりひらきながら、馬を育てていたのです。貧乏な九郎はあるひやせた馬を一頭つれて、千葉のほうの馬市に売りに行きました。その途中、浅草の観音さまにお詣りして、こんなお願いをしました。「この馬が売れて、そのお金のなかに大観通宝(中国の通貨)がまざっていましたら、それはぜんぶ、観音さまにさしあげます」
驚いたことに馬は高く売れ、受け取った通貨は全部大観通宝でした。
(約束は守らなければならない。馬が高く売れるようになどと願った自分がいけなかった。お金はしっかり働いて手に入れなければならないと、観音さまが教えてくださったのだろう)
こうして九郎は、それまで以上に働いて、とうとう中野長者といわれるほどのお金持ちになりました。
しかし、思わぬ不幸がやってきました。大事に育てていた小笹という一人娘が、病気で亡くなってしまったのです。
九郎の悲しみは、たいへん深いものでした。それで九郎はお坊さんになって名前を「正蓮」とかえ、家もお寺につくりかえて、立派な三重の塔も建てました。それが成願寺のはじまりです。
それから600年ものあいだ、成願寺は仏さまをしたう人々の心とともに生きてきました。中野や新宿の方はもちろん、古くから奥多摩や山梨方面への道筋にあたっていましたので、たくさんの旅人が成願寺にお詣りしたといいます。幕末に活躍した新撰組の近藤勇も、家族を成願寺にあずけていたという記録があります。

 数年前修復が施された成願寺のご開山さまのお像のなかから、古い小さな骨片がたくさん出てきました。これを東京大学名誉教授鈴木尚先生に鑑定していただいたところ、中年の男性とからだの弱い娘の骨ということがわかりました。鈴木九郎と夭折した小笹の遺骨なかにまちがいないでしょう。


ありがたいお話です。


伝説の大観通宝が刻まれた用水甕
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中野長者の悪行と改心 (こういうお話も生まれた)
広大な領地を持ち、豪勢な屋敷に住み、大勢の下男を使っていた鈴木九郎は山と積まれた財宝を下男に背負わせ武蔵野の野辺にひそかに埋蔵した。そして帰路、隠蔽のために橋の上で下男を斬殺し川の中に投げ込んだ。このようにして殺された者は、十人にもおよんだといわれている。土地の人たちは、下男の姿が行くときには見えたが帰りには見えないので、この橋を「姿見ずの橋」とか「面影橋」と呼ぶようになった。(淀橋伝説)
 しかし、やがて恐ろしいタタリが………。一人娘の小笹が婚礼の夜のこと。熊野神社方面の森の上から、一群の黒雲がわき出し、切って落としたような大雷雨。娘小笹は、へびに化身しておどり出し、十二社に向い、ついに池の中に飛び込んでしまった。鈴木九郎は、罪もない下男を殺したたたりの恐ろしさを今さらのように思い起こしたのである。
そのころ、天下に名の聞こえた小田原関本の最乗寺住職、舂屋宗能禅師に救いを求めた。禅師は早速、十二社池の端で祈とうを行った。娘小笹はやがてもとの姿になって昇天したという。 鈴木九郎は一念発起して剃髪し、法名を正蓮と改め、蓄え置いた金銀を投げ出し、自宅をこわして建てたのが多宝山成願寺である。鈴木九郎は六九歳でなくなった。

鍋島家の墓所
ここ成願寺には大名・蓮池鍋島家の墓所がある。中野在来の寺院で大名家の墓所があるのはここだけです。蓮池(佐賀市東郷)の鍋島家は直澄が寛永16年(1639)5万2千6百石を与えられ分家したのに始る。墓所には10基の墓石が立ち並んでいる。
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成願寺門前より山手通りを隔てて
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65 東郷橋  66桔梗橋  67皐月橋  68 中ノ橋
このあたりは低層住宅の背面と神田川の護岸壁との間が狭く、ギリギリのところで遊歩道が作られている。後ろを振り返れば都庁舎と高層ビル群を眺望できる。天気が曇りだったせいか灰色に沈んださみしい風景だ。
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このところの橋名はみなとってつけたようで味気ない名づけだなぁ

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中ノ橋傍にある案内板 神田川全行程を示したものは珍しい
どうやらこのあたりが中間地点のようだ。
だから「中ノ橋」なのか?

69 月見橋

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曇天だと街灯も憂鬱

月見橋と晴天の西新宿 やはり気持ちがいい

新宿摩天楼を背景にした観月もいいかもしれない。
高層ビル群の中から見るのと違って
このあたりからは生活のぬくもりが立ち上っているから
大自然の月と現代建築の粋は調和するのではないか。

70 花見橋

70番目の橋です。神田川にかかる橋の数はは140ですから、数でいけばここが真ん中。
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カモたちの水遊びを見ました














71 桜橋
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26番目の里程標がありました
「すみだがわ」から13キロ来ました
「みなもと」まであと11.6キロとなります

里程標のほとんどは取り払われています
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72 中野新橋

真新しいしかも朱塗りの欄干で、まるで神社の境内にある橋のようです
平成23年(2011)に竣工したばかりの橋です。
この一帯は昭和60年ぐらいまでは花街があったところでその名残なのでしょう。
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橋の上から振り返って川沿いの風景をみれば、両岸ともに集合住宅の背面が灰色の壁になって連なっています。川岸ぎりぎりに建っているので遊歩道はとても狭い。
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