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zoom RSS 江戸城北の丸を歩く 2 田安門界隈

<<   作成日時 : 2015/03/29 15:17   >>

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江戸城は、長禄元年(1457)に太田資長(道灌)によって創られたとされる。天正18年(1590)徳川家康の居城となり、文禄元年(1592)から大規模な改修が実施され、慶長12年(1607)に天守閣が、寛永13年(1636)に総構(そうがまえ)が完成し、大城郭としての形が整えられた。
もともと田安門が創建されたころはこのあたりは「田安口」または「飯田口」とも呼ばれていたところで、上州方面への道が通じていたといわれており、田安明神(現在の築土神社)があったことから田安門と名づけられた。
門ができて、江戸城内になってからは北の丸となった。北の丸というとこの図もそうだが古地図にはしばしば田安家と清水家の屋敷が描かれているが、当然のことだが初めからあったわけではない。

家康の築いた初期の江戸城は本丸、二の丸、三の丸からなり、西の丸吹上御苑には御三家の尾張、水戸、紀伊の屋敷があった。その当時の北の丸はまだ竹藪を整備し関東代官となった内藤清成の屋敷や旗本屋敷に割り当てられ、代官町と呼ばれていた。
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田安門
北の丸北部に位置する枡形門(ますがたもん)であり、正面の高麗門(こうらいもん)と、その右手奥の櫓門(やぐらもん)からなる。門の創建年代は明らかではないが、現在の門は高麗門の扉釣金具に残る刻銘から寛永13年に建てられたものであると考えられている。しかし、櫓門の上部は破損のため大正末期から昭和初期にかけて撤去されていたものを、昭和36〜41年度の修理で復旧整備したものである。田安門は、江戸城の総構完成当時に遡る現存唯一の建物であり、高い価値を有している。

そのうち江戸城整備も進むと北の丸には徳川家近親者の徳川忠長、徳川綱重らの屋敷がつくられ、天守閣の傍にある大奥に仕えた女性たちの隠居所が立ち並ぶ。これは田安比丘尼御殿と呼ばれた。権勢を誇りつつどこかに時代の影を宿した色気たっぷりの尼さん御殿だったんだろうねぇ。

田安比丘尼御殿

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一位様 (阿茶局  あちゃのつぼね)
1555−1637 織豊-江戸時代前期,徳川家康の側室。
夫の神尾忠重の死後,家康につかえて大奥を統制し,大坂冬の陣では徳川方の和議の使者となった。徳川秀忠の五女・和子の後水尾天皇への輿(こし)入れに母代わりをつとめ,のち従一位をさずけられ神尾一位,一位の尼とよばれた。寛永14年1月22日死去。83歳。本姓は飯田。名は須和。号は雲光院。

英勝院 (えいしょういん
1578−1642 織豊-江戸時代前期,徳川家康の側室。
太田康資の娘。天正18年側室となり,松姫,市姫をもうけたほか,徳川頼房(のちの水戸藩主)を養育。家康の死後,出家して英勝院と号し,寛永11年鎌倉扇ケ谷に英勝寺を建立した。寛永19年8月23日死去。65歳。江戸出身。名はお八,お勝,お梶など。

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天樹院 千姫
1597―1666
徳川2代将軍秀忠の長女。母は正室浅井氏お江。1603年(慶長8)7歳の千姫は11歳の豊臣秀頼に嫁した。落城の前夜脱出し、家康の陣営に至り、ついで江戸に送られた。桑名城主本多忠政の長子忠刻に再嫁し、忠政が姫路へ転封となったので忠刻とともに姫路城に居することとなった。26年(寛永3)忠刻は父に先だち病没したので、千姫はふたたび江戸城に戻り、落髪して天樹院と称し、城内の竹橋御殿に住した。大坂城脱出の際、坂崎出羽守直盛が救出に功があり、千姫を与えるといわれたとして、千姫再嫁のときに騒動を起こし殺害された事件は著名である。忠刻没後、千姫は乱行をほしいままにしたという話もあるが、虚説である。
右図は一魁斎芳年画 魁題百撰相 秀頼公北之方(千姫)だがグロテスク好みの芳年とはいえこれは浮気性の三味線師匠ですなぁ。

春日局
1579ー1643(天正7〜寛永20)名はお福。父は斎藤利三。稲葉正成の妻となり正勝(のちの小田原城主)らを生み離別。のち大奥に入り、家光の乳母となった。家光・忠長の継承争いの際、大御所家康へ直訴。それが功を奏して家光を三代将軍とすることができ、大奥を統率した。水尾天皇の譲位問題では秀忠の意で上洛、天皇と拝謁するなど、一介の乳母を遥かに超えた働きを見せた。春日局は天皇拝謁の際に賜った院号。

徳川忠長
1606−1634 慶長11年5月7日生まれ。徳川秀忠の3男。母は正妻お江与(えよ)の方(崇源院)。秀忠夫妻が才智にめぐまれた忠長を寵愛したため,次期将軍になるとの風評があり,危機感をいだいた家光の乳母春日局 は,駿府の家康に嘆願し,家康の指示で家光が世子と決定した。寛永元年駿河府中藩主となる。55万石。3年従二位,権大納言。駿河大納言とよばれた。兄の3代将軍徳川家光との確執から,8年甲斐に蟄居(ちっきょ),ついで上野高崎に幽閉され,寛永10年12月6日自害させられた。28歳。幼名は国松。

画像田安門といえば、田安家(田安徳川家)
徳川8代将軍である徳川吉宗は1730年(享保15年)、次男・宗武を家祖として田安家を興しました。宗武は田安門内に邸地を与えられ、翌16年(1731年)に屋形へ移っています。
なお宗武の子である松平定信はここで生まれています。
田安家は御三卿として一橋家や清水家などほかの2家とともに、徳川将軍家に後嗣がないときは将軍の後継者を提供する役割を担い、また、徳川御三家へ後継者を供給することにもなっていました。
田安徳川というのは、田安門内に田安邸があり、それが家名に転じたものです。

お隣の清水徳川家は9代将軍家重の次男重好を家祖とし、宝暦3年(1753年)に賄料3万俵を与えられ、1757年に御守(家老)2名が付けられ、1758年に清水門内に邸地を与えられています。

明暦の大火により焼け野原になった北の丸ですが古地図にあらわれる典型的な邸宅の様子はこのあたりから始まります。

弥生慰霊堂

田安門を高麗門から渡櫓門を抜け左、左とぐるりと回って細い階段の坂を上る。高台、大変わかりにくいところで閑散とした場所があります。弥生慰霊堂という。
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1877年(明治10年)に起きた西南戦争に出征して戦死した警察官(警視隊員)は名誉の戦死として東京招魂社(現靖国神社)に祀られたが、凶悪犯逮捕や災害警備で殉職した警察官に対しては追悼すらなかった。そこで警察・消防殉職者のための「弥生神社」が本郷区(現文京区)向ヶ岡弥生町に創建された。昭和22年、ここに遷座し、「弥生廟」と改められたが、現在では無宗教の追悼施設になっています。初代大警視・川路利良が明治18年(1885年)特別功労者として祀られている。
またここには「昭和天皇御野立所」という記念碑が立っています。
昭和5年3月、昭和天皇が関東大震災後の東京復興状況をこの地で確認された。近衛歩兵第一連隊の駐屯地であったことからOB有志が平成元年の天皇誕生日に記念碑を建てたものです。当時はこの高台から東京湾まで眺望できたのですね。

明治維新後北の丸は近衛師団の駐屯地になりました。

画像「近衛師団」とは、日本陸軍の組織として皇居の守衛と儀仗の任に当たった部隊です。西郷隆盛が率いた御親兵が母体となっていて、明治5年に近衛兵と改称し、さらに明治24年に近衛師団となりました。「近衛師団」が編成されると、徳川家が江戸城を明け渡した後の田安家屋敷の跡には「近衛歩兵第一聯隊」、清水家屋敷の跡には「近衛第二聯隊」の駐屯地を置きました。 
日本の近衛師団において、東宮(皇太子)は近衛歩兵第一連隊付となるのが通例で、嘉仁親王(後の大正天皇)・裕仁親王(後の昭和天皇)も近衛歩兵第1連隊付となっていました。
また、近衛師団は他の師団と異なり、特定の地域からの徴兵によるのではなく、全国から選抜された兵によって充足されていました。眉目秀麗というのも条件だったとか、御婦人方にはもてたらしい。さらに近衛師団に所属することは、郷土の誇りとされ、地方の名士から一席設けられることも多かったそうです。
画像大日本帝国陸軍の軍帽には五芒星が刺繍されていた。桜花の萼(がく)の形を模しているとも、弾除け(多魔除け)の意味をかついで採用されていたとも言われている。
一方陸軍内にあって近衛師団のマークは星の周囲を桜の枝で囲んだ独特の帽章で天皇親衛軍の誇りを示しつづけた。
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北の丸公園には近衛師団関連の史跡が数多くあります。







日本武道館
田安門を入るとそびえ立つのが武道館だ。
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1964年開催の東京オリンピックの柔道競技会場として建設され、同年10月3日に開館した。初代会長は正力松太郎。法隆寺夢殿をモデルにした八角形の意匠である。大屋根の稜線は富士山をイメージしている。
設立された頃は「日本武道の聖地」的な意味合いが現在以上に強かったため、1966年にビートルズのコンサートが行われた際には、細川隆元を始め「日本の武道文化を冒涜する」、「とんでもない」という者も多かった。
しかし今や、アーチストにとって武道館公演は、「一流」の興行能力・集客力を持っていることのステイタスとなっています。



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