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zoom RSS 松永富士見 『魂の一行詩 バレンタインデー』  10年の集大成に見る高校同期生の素顔

<<   作成日時 : 2015/04/20 23:57   >>

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画像松永富士見さま

句集『魂の一行詩 バレンタインデー』の刊行、おめでとうございます。
素晴らしい十年の集大成ですね。
タイトルにある「魂」とは全人格であり、全宇宙のことでしょう。これを短い言葉で表現することは並大抵ではありませんが、あえてタイトルにしたところに、居住まいを正しあらためて俳句と向き合おうとする松永さんの気迫が伝わってきます。
書評はよく書いていますが、知人の出版物では伸一郎さんの作品を紹介したぐらいでそれも俳句の作品ではありませんでした。実は俳句をどういうアングルでたしなむのかを知らないので困ります。
伸一郎さんの作品でもそうでしたが絶賛タイプの書評は苦手でして、雑駁で失礼なところもあるかもしれませんが、率直に感じたところを綴ってみました。
これからの一層のご活躍を期待しています。

よっちゃん



 「風巻けよ 素顔こぼせよ 春日傘」 江崎来人

短詩を楽しむ人を羨ましいと思う僕だが、自分で詠むことはもちろん他人の作品を鑑賞することも経験がない。
散文ならまだ親近感がある。ところが散文だって所詮文字という記号の集積に過ぎない。自分の気持ちなりを記号でもって表現することがいかに難しいかはよくわかっている。僕は真実というものは無限大の真実であって、有限の言葉にした途端、するりと虚構に変わってしまうものだと思っている。真実とは言葉では近寄りがたい実体なのだ。それを他人が読んでどこまで世界を共通にできるかというと見当もつかない。まして五・七・五の枠では………?と考える。
とはいえ、無限小は無限大に通ずるとか。………で、十七文字は思いのほか真実に近づけるのかもしれない。虚構に涙することはあるんだから、俳句に心動かすことがあってしかるべし。

詠み人は万感の思いを短い言葉に練り込んでいる。その入魂の一行をたかだか第三者の頭脳とか知性でもって解読できるわけがない。ただ心とか感性とかが作者の叫びにいくらかでも共振するならば、その作品をしっかりと受けとめたことになるのだ………と僕は思っている。短詩は作品を理解するものというよりも感受するものなのではなかろうか。
かくして、濃密に練り上げた言葉はその人が感得した本質に肉迫しているものだが、余人にはその塩梅がわからない。だから、ついつい説明してもらいたくなるものだ。
ところが詠み人は説明しない。説明しようとすれば真実とは微妙に違って嘘になってしまうことがわかっているから。句の本質はおのれのうちにしまった灰の中のダイヤモンドだ。
句集の後半に角川春樹氏の「批評」が掲載されている。他人の言説を引用しないと自分の考えを述べられない向きもあるようだが、あえて参考にはしなかった。
ところで、説明がないと読者は勝手に解釈するかもしれない。松永富士見という人物についてのウラ・オモテ、あれやこれや勘繰ることはありうる。迷惑かもしれないがそのリスクはつきものなんでしょう。
凡俗の読者にとって句集を読む楽しみは実はそのあたりにあるんじゃぁないだろうか。

僕は楽しく読ませていただいた。

僕がいい作品だなと感じたのはこういう一連の作品だ。
それはおそらく同じ世代が共通する実体験的感覚なのだろう。
なにかの折に拝借して僕自身を表現したくなるような素晴らしい五・七・五の措辞だ。

秋風の落としゆくもの拾ひけり
青柿や夕日は遠くとほくあり
ゆっくりと枯れゆくもののあたたかし
かすかなるものに触れゐて秋に入る
身を離れゆくものあまた葛の花
花野ゆく胸の内より日暮けり
焼きそばの肉のつめたさ酉の市
「今」去りて「今」もらひたる冬銀河
失ひしものみな美しき冬銀河
今日といふ過去をいきをり寒椿
睡蓮やまだ今日の日の少しあり
ワタクシといふ北窓を開きけり
花時雨ものみな土へ還りけり

人生の大半を過ごした職場。経済社会の成長、成熟、崩壊があって、ゴール間近には明日どうなるかまったく見えない崖っぷちに立たされた。ところがどうだ、今ははっきりした明日が見える。それしかない明日だ。
これらの句は、わかっている明日に向ける祈りの歌である。と同時に、懐旧の思いを深くし、今を生きようとしている自分自身への応援歌である。沈みゆく夕日を背に足元からのびる自身の長い影を見つめている。熱い日もあったなぁ。………と、僕にとってはそんな心象風景がこれらの作品なのだ。
また全体として仏教的な時空の交錯があり、その雰囲気が独特の安らぎをもたらしている。
「青柿や夕日は遠くとほくあり」
僕だけのことだが、未完の親鸞が雑踏で聞いたというざれ唄を思い浮かべた。
おやをおもわば ゆうひをおがめ  おやはゆうひの まんなかに
にしのそらみて なむあみだぶつ  みだはゆうひの まんなかに


「冬銀河」となると実感がわかない。子供のころに見えた天の川は今は見えないからだ。これは作者の技巧である。虚の中に実をあらわす技巧で、良しとされる。ただ僕の「好み」ではない。「夕鶴」とか「凍鶴」についても同じだ。

また「平和の朝」にある作品群は言葉遊びに面白さがあるがやや理に過ぎている感じがした。

ところで「十三夜」とはなんでしょうか?
単なる秋の季語ではない。なにかある。
たとえば僕は「十三夜」に樋口一葉の女の悲惨である『十三夜』を重ねるかもしれない。
あるいはかなり前の流行歌を思い出す。
河岸の柳の 行きずりに
ふと見合わせる 顔と顔
立ち止まり 懐かしいやら 嬉しやら
青い月夜の 十三夜
だが詠み人はきっと違う十三夜の陰影をこの句に映し出しているのであろう。
第三者には理解不能だ。
とまれ、詠み人の内心に潜む憂鬱とか屈託が滲み出ている。

テーブルに鍵置いてゆく十三夜
十三夜紙ナプキンに置手紙
十三夜赤い魚を煮てをりぬ
人の世の音を遠くに十三夜
心音の透きとほりゆく十三夜
うつむけばうなじの美しき十三夜

なぜか?「色」よりも「音」が聞こえる十三夜。


次のような作品は
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
………短歌だが一世を風靡したその味付けを感じます。

河豚鍋の火を止め好きと言はれても
バレンタインデー少し残業して帰る
アラン・ドロンに西日の当たる四畳半

詠み人が二十歳代当時の作品?
それともアラコキさんの期待・願望をシャレたか?
いやぁ最近の出来事!………などなど根拠のない憶測を巡らせる。
いずれにせよ、いかにも若々しくおどけて見せていることは確かだ。


鮮やかに彩られた次の作品であるが、仏性と魔性があやなして実に官能的である。

血の騒ぐ音のしており牡丹の芽
虫篭を月の光の中に吊る
くちびるに少し血のさす返り花
月光をまとひ凍鶴吹かれけり
牡丹雪真っ赤に生きた日もありぬ
くちびるに微熱ありけり秋蛍
心音の透きとほりゆく十三夜

なかなかに実感がこもって年増の妖しさがにじみ出ている。
ゾクッ!
僕の好みの作品だ。

松永富士見 その素顔をのぞいたところ 只者ではない。

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